このように宇宙論一つを例にとっても、科学と仏教が非常に近いことがおわかりになったと思います。双方に通じるのは、ただ純粋にシンプルに真実を追究したいという姿勢です。そして知性によってあらゆる事象を検証し、論理によって物事を捉えようという考え方です。
もし仏教が一神教であれば、科学とこのように融合することはできないでしょう。唯一絶対の神がこの世界を作ったという教義があり、それを疑うことは許されないからです。それは論理を超越した観念なのです。
私はこれを否定するつもりは全くありません。宇宙がどうやって生まれたのか、確かな答えはどこにもないからです。
ただし、「宗教は科学と対立する」というイメージは、仏教にそぐわない。「この世界の真理に迫りたい。そして少しでも良い方向へ導きたい」、仏教徒はこう考えて、あらゆる物事を観察し、そのありようを論理的に検証してきたからです。
全ての事象にはタネがある
そして論理と検証の結果、仏教が導き出したのが「因果」の法則です。
「原因があるから結果が生じる。結果には必ず原因がある」。
仏教では、人間、仏質、出来事、宇宙・・・・・・あらゆる事象すべてがこの法則で成り立っていると考えています。
これをいま目の前にある花でたとえてみましょう。植物は種から芽が出て成長して、やがて花を咲かせます。これを因果の法則に当てはめると、種が「因」となり、花という「果」が生じたということになります。
これは人間だって同じことです。
あなたは突然この世界に誕生したわけではありません。あなた自身にも当然因があります。
生物学的に捉えれば、直接的な因は両親の卵子と精子になります。それではそれでは両親の因はというと、そのまた両親の卵子と精子になる。
こうやって因をたどっていくと、人類の祖先にまでたどり着いてしまいます。さらに進化の歴史を逆流して、動物の起源、そして生命の源まで還元し、ついにはこの世のある物質を生み出したビッグバンまで到達することになります。そして、このビッグバンにも、何らかの因が存在するはずです。
つまり、自分自身の存在を含め、この世界のあらゆる事象が、はるか昔から続く連続性の中にあり、因果の法則によって関係しあっているのです。
ただし、生物は意識と肉体の両方によって成り立っています。そのため、肉体の因が卵子と精子であるように、意識がそのままの状態で受け継がれていくわけではありません。あくまで因は果の発生を引き起こすもの、促すものです。たとえば両親の手が子どもの手になるわけではなく、両親の卵子と精子が種となり、肉体という果を生み出しているということです。
意識も、そのまま意識が転移するのではなく、生物が意識を持っていたありよう、その本質的な念やエネルギーのようなものが、他の生物に転移すると考えられます。
もちろん一般的には、意識は生まれたときに誕生し、死ぬときには消滅してしまうように思われています。でもそれは、私たちが認識できているごく表面的な意識に過ぎません。それは生物に意識が宿るということの本質ではないのです。
肉体が死んで別の仏質に分解されるように、意識の本質は生命全体のサイクルのなかへ戻る。そして別の生命の意識を生み出す素(もと)になっているのです。
これが「輪廻」です。輪廻とは、意識における因果のシステムなのです。始まりも終わりもない。本質的な連続性があそこにはあります。
「第七章 この世で起こることには必ず理由がある」
もし仏教が一神教であれば、科学とこのように融合することはできないでしょう。唯一絶対の神がこの世界を作ったという教義があり、それを疑うことは許されないからです。それは論理を超越した観念なのです。
私はこれを否定するつもりは全くありません。宇宙がどうやって生まれたのか、確かな答えはどこにもないからです。
ただし、「宗教は科学と対立する」というイメージは、仏教にそぐわない。「この世界の真理に迫りたい。そして少しでも良い方向へ導きたい」、仏教徒はこう考えて、あらゆる物事を観察し、そのありようを論理的に検証してきたからです。
全ての事象にはタネがある
そして論理と検証の結果、仏教が導き出したのが「因果」の法則です。
「原因があるから結果が生じる。結果には必ず原因がある」。
仏教では、人間、仏質、出来事、宇宙・・・・・・あらゆる事象すべてがこの法則で成り立っていると考えています。
これをいま目の前にある花でたとえてみましょう。植物は種から芽が出て成長して、やがて花を咲かせます。これを因果の法則に当てはめると、種が「因」となり、花という「果」が生じたということになります。
これは人間だって同じことです。
あなたは突然この世界に誕生したわけではありません。あなた自身にも当然因があります。
生物学的に捉えれば、直接的な因は両親の卵子と精子になります。それではそれでは両親の因はというと、そのまた両親の卵子と精子になる。
こうやって因をたどっていくと、人類の祖先にまでたどり着いてしまいます。さらに進化の歴史を逆流して、動物の起源、そして生命の源まで還元し、ついにはこの世のある物質を生み出したビッグバンまで到達することになります。そして、このビッグバンにも、何らかの因が存在するはずです。
つまり、自分自身の存在を含め、この世界のあらゆる事象が、はるか昔から続く連続性の中にあり、因果の法則によって関係しあっているのです。
ただし、生物は意識と肉体の両方によって成り立っています。そのため、肉体の因が卵子と精子であるように、意識がそのままの状態で受け継がれていくわけではありません。あくまで因は果の発生を引き起こすもの、促すものです。たとえば両親の手が子どもの手になるわけではなく、両親の卵子と精子が種となり、肉体という果を生み出しているということです。
意識も、そのまま意識が転移するのではなく、生物が意識を持っていたありよう、その本質的な念やエネルギーのようなものが、他の生物に転移すると考えられます。
もちろん一般的には、意識は生まれたときに誕生し、死ぬときには消滅してしまうように思われています。でもそれは、私たちが認識できているごく表面的な意識に過ぎません。それは生物に意識が宿るということの本質ではないのです。
肉体が死んで別の仏質に分解されるように、意識の本質は生命全体のサイクルのなかへ戻る。そして別の生命の意識を生み出す素(もと)になっているのです。
これが「輪廻」です。輪廻とは、意識における因果のシステムなのです。始まりも終わりもない。本質的な連続性があそこにはあります。
「第七章 この世で起こることには必ず理由がある」
出典:『傷ついた日本人へ』 ダライ・ラマ14世 新潮社 2012.4.20