ハルマゲドンの大峠 ノストラダムス予言研究家ザール隊長

日月神示:春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠越せんことになるぞ。 日月神示を参考にノストラダムスの予言を研究しています。2016年から2025年までは正念場のときです。2023年、北海道の長雨から日本はいよいよ厳しい状況となります。2024年は北日本と首都直下の大地震があるようです。北海道・東北・関東はほぼ間違いなく住めなくなくなりますね。国民は淘汰され、3500万人ほどになるようです。日月神示では掃除・洗濯・身魂磨き・改心という言葉が頻繁に使われています。カルマの浄化が大切です。 日月神示に関しては中矢伸一さんの著書などから転載した記事もあるので読んでいただければ幸いです。

カテゴリ: この世で起きることに入って必ず理由がある

 このように宇宙論一つを例にとっても、科学と仏教が非常に近いことがおわかりになったと思います。双方に通じるのは、ただ純粋にシンプルに真実を追究したいという姿勢です。そして知性によってあらゆる事象を検証し、論理によって物事を捉えようという考え方です。
 もし仏教が一神教であれば、科学とこのように融合することはできないでしょう。唯一絶対の神がこの世界を作ったという教義があり、それを疑うことは許されないからです。それは論理を超越した観念なのです。
 私はこれを否定するつもりは全くありません。宇宙がどうやって生まれたのか、確かな答えはどこにもないからです。
 ただし、「宗教は科学と対立する」というイメージは、仏教にそぐわない。「この世界の真理に迫りたい。そして少しでも良い方向へ導きたい」、仏教徒はこう考えて、あらゆる物事を観察し、そのありようを論理的に検証してきたからです。

全ての事象にはタネがある
 
 
 
そして論理と検証の結果、仏教が導き出したのが「因果」の法則です。
 「原因があるから結果が生じる。結果には必ず原因がある」。
 仏教では、人間、仏質、出来事、宇宙・・・・・・あらゆる事象すべてがこの法則で成り立っていると考えています。
 これをいま目の前にある花でたとえてみましょう。植物は種から芽が出て成長して、やがて花を咲かせます。これを因果の法則に当てはめると、種が「因」となり、花という「果」が生じたということになります。
 これは人間だって同じことです。
 あなたは突然この世界に誕生したわけではありません。あなた自身にも当然因があります。
 生物学的に捉えれば、直接的な因は両親の卵子と精子になります。それではそれでは両親の因はというと、そのまた両親の卵子と精子になる。
 こうやって因をたどっていくと、人類の祖先にまでたどり着いてしまいます。さらに進化の歴史を逆流して、動物の起源、そして生命の源まで還元し、ついにはこの世のある物質を生み出したビッグバンまで到達することになります。そして、このビッグバンにも、何らかの因が存在するはずです。
 つまり、自分自身の存在を含め、この世界のあらゆる事象が、はるか昔から続く連続性の中にあり、因果の法則によって関係しあっているのです。
 ただし、生物は意識と肉体の両方によって成り立っています。そのため、肉体の因が卵子と精子であるように、意識がそのままの状態で受け継がれていくわけではありません。あくまで因は果の発生を引き起こすもの、促すものです。たとえば両親の手が子どもの手になるわけではなく、両親の卵子と精子が種となり、肉体という果を生み出しているということです。
 意識も、そのまま意識が転移するのではなく、生物が意識を持っていたありよう、その本質的な念やエネルギーのようなものが、他の生物に転移すると考えられます。
 もちろん一般的には、意識は生まれたときに誕生し、死ぬときには消滅してしまうように思われています。でもそれは、私たちが認識できているごく表面的な意識に過ぎません。それは生物に意識が宿るということの本質ではないのです。
 肉体が死んで別の仏質に分解されるように、意識の本質は生命全体のサイクルのなかへ戻る。そして別の生命の意識を生み出す素(もと)になっているのです。
 これが「輪廻」です。輪廻とは、意識における因果のシステムなのです。始まりも終わりもない。本質的な連続性があそこにはあります。

               「第七章 この世で起こることには必ず理由がある」
 

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出典:『傷ついた日本人へ』 ダライ・ラマ14世 新潮社  2012.4.20

 「因果の法則」には三つのルールがあります。この三つが満たされていない状況では因果の法則は成り立ちませんし、反対に満たされていれば因果は成立することになります、
 第一のルールは、「因がないところには果は生じない」というものです。
 たとえば、何もない場所に突然花が咲くということはありません。種があったから花が咲いたのです。
 もしこのルールを宇宙の起源に当てはめると、絶対的存在が宇宙を創造したり、「完全な無」から宇宙が生み出された、という説は否定されることになります。逆にこれを認めるとすれば、宇宙誕生の瞬間だけは因果の法則を超越したということになりますが、なぜその時だけ法則が破られたのかという論理的な説明はまだ誰もできてはいません。
 第二のルールが、「不変から果は生じない」というものです。不変のもの、永遠のものは何の変化も起こさないため、因にも果にもなりえません。無常であるからこそ物質は変化し、新しい何かの因となるのです。
 第三のルールは、「因には果を生み出す素質がある」というものです。全く無関係の原因から結果は生じません。因の中には潜在的な可能性がなければ、因果は成立しないのです。それは、果と同種の性質を持っていたり、強い関係性がったりということです。
 たとえば花の因は種でしたが、いくら別のものを土の中に植えても花は咲いてこないということです。花という果を生み出す可能性、素質がない限り、それは因になり得ないのです。

      「第七章 この世で起こることには必ず理由がある」

出典:『傷ついた日本人へ』 ダライ・ラマ14世 新潮社  2012.4.20

 因果が当てはまるのは、形のあるものばかりではありません。
 「行為」にも因果の法則が成り立ちます。たとえば誰かの行為によって何か新しいことが生じた場合、その行為が「因」、起こったことが「果」ということになります。
 しかし、行為を行うのは、あくまで命が持つ生き物だけです。物質である場合、自ら行為をすることはありえないので「、行為による因果も起こりません。そのため、物質の因果関係はシンプルで明確なものが多い。たとえば物質が化学反応を起こして別の物質に変えるといった自然現象がこれに当たります。はるか昔、地球にまだ生物がいなかった頃は、きっとこの因果関係だけで世界は動いていたのでしょう。
 一方で、命あるものには行為が伴います。しかもそこには、色々な意志や感情が入り交じり、様々な人やものに影響を与えてしまう。そのため、因果関係に行為がからむと、その関係性は急に複雑になります。
 また、「行為」と一言で言っても、人間の場合は「三つのパターン」に分けられます。「運動」による行為、「言葉」で何かを伝える行為、そして「心」をはたらかせる行為です。
 この三つの内、「心」における行為が非常に重要です。なぜなら、この心のはたらきがその人の意志や動機となって、新たな行動を起こさせたり、他人に発する言葉を生んだりするからです。
 たとえば誰かを助けるという行為を行うのは、その前に「その人のためになりたい」という心のはたらきがあったからです。逆に相手に意地悪な言葉を投げかけたときには、前から心の中で「この人は嫌いだ」という思いが渦巻いていたでしょう。
 このように、因果は「心」によって、しくみがかなり異なってきます。特に人間は心の働きが強いので、因果に与える影響もかなり大きいといえます。
 ちなみに、草木や花などの植物は「行為」を起こすことがあるのでしょうか。
 植物もただの物質とは違って生物ですし、感覚に近いものが備わっているという考え方もあるようです。しかし物事の良し悪しを区別したり、幸せや苦しみを感じたりというような「心」は持っていません。ですから、動物がするような「行為」はないと言っていいでしょう。
 植物が花を咲かせたり実をつけたりすると、ある種の変化を遂げたとしても、それは感情や意志に基づいているものでありません。花が咲くには、植物そのものに組み込まれたはたらきのためです。色や形の違いも物質的な差異に過ぎず、そこに意志があるわけではない。植物は、物質と似たような単純な因果で廻っていると言っていいでしょう

 
        「第七章 この世で起こることには必ず理由がある」

出典:『傷ついた日本人へ』 ダライ・ラマ14世 新潮社  2012.4.20

 因果の三つのルールにあったとおり、果は同じ性質の因によって引き起こされます。よい因はよい果を引き起こし、悪い果は悪い業を引き起こします。
 実はこの因果のはたらきは相手に影響を与えるだけでなく、自分自身にも同様の影響を与えているのです。
 たとえば、よい行いをして誰かを幸せにしたとき、そのよい影響が本人にもたらざれます。行為の影響、行為の持っていた力というのは、そのまま自分にも残り続けるのです。
 これを仏教では「カルマ」(漢字では「業」)と言います。本当は「行為」そのものを表すサンスクリット語ですが、仏教では少し違う使い方をします。その行為にこめられた力、はたらき、性質、そういったものを指して使うのです。
 そして自分に残ったカルマは、いずれ自分の身に必ず結果を生み出します。
 自分が起こした因によって新しい果が生まれ、それがまた因となって新しい果が生まれて・・・・・・と、因果はずっと連続していきます。そして、その影響の連続はやがて自分の方へと廻ってきて、自分の身にも果を生じさせるということです。
 つまり悪い行いをしてよいカルマを持っている人には、いずれ悪いことが起こるでしょうし、よい行いをしてよいカルマを持っている人には、その人によってよいことが起こるのです。結局自分に起こることは、過去に自分がした行為の結果ということです。これを「因果応報」といいます。
 ただし、因果応報がすぐに成立するというものではありません。そのため、「悪いことをしても平気だった」「いいことをしても報われない」と考えるようになり、因果に対して疑問を持ってしまう人もいるようです。
 現実には、果として何かが起きるときには、因だけではなく様々な要素や条件の影響を受けます。逆に言えば、そうした要素や条件が整わなければ、因があっても結果は生じてこないのです。
 因果に影響を与える条件や要素のことを「縁」といい、因と縁が揃ったときに初めて結果が生じることを「縁起」といいます。これを花にたとえるなら、たとえ種という因があったとしても、水や空気や温度がなければ花は咲かないのと同じです。
 物質の因果は単純なしくみでしたが、人間だとそうはいかないということです、「悪いことをしたので、悪いことが起きました」というような単純なしくみではないのです。
 因となりうる行為はこの世はこの世に無数にありますし、たくさんの要素や条件が絡み合っています。たとえば現代における環境問題や近代化の弊害は、その因だけでも膨大にあり、過去から少しずつ積み上げられていたものです。
 そのため因果のしくみは非常に繊細かつ複雑で、人間が正確にそれを予測したり把握したりすることは不可能なのです。全てを見通せる「一切智」があれば正確に言い当てられるでしょうが、俗世にいる私たちには無理なことです。
 ただし、しくみのありようは複雑でも、因果やカルマの原理原則は変わりません。よい因にはよい果が、悪い因が生じます。一度してしまった行為は、決して取り戻すことはできません。同じように一度背負ってしまったカルマが、勝手に消えることはありません。その人に深く根付き、積み重なっていきます。そして来るべきときに同じ性質の結果を生み出す力となるのです。要素や状況が整いさえすれば、必ず結果が生じます。
    

つづく

注:「サンガ」 組織 仏教の出家修行者(比丘比丘尼)により形成される組織
  「三毒」 執着・怒り・無智
 

「第七章 この世で起こることには必ず理由がある」

出典:『傷ついた日本人へ』 ダライ・ラマ14世 新潮社  
2012.4.20

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