私の父はクリスチャンでした。無教会派のキリスト教思想家、内村鑑三(かんぞう)に傾倒していたようで、自宅にも全集がおいてありましたが、父自身は近所の教会に通っていました。父自身は近所の教会に通っていました。私自身も父に連れられて教会の日曜学校に行ったことを、おぼろげながら覚えています。
父が亡くなると、母は何の疑いもなく、僧侶を呼んで仏教式の葬儀を行ないました。我が家はもともと日蓮宗なのです。教会の牧師さんは、父が亡くなったことを知って、弔問に来てくださいました。母は、このとき初めて気づいたようです。
「仏式の葬儀でよかったのかしら?本人はキリスト教式を望んでいたのでは?」と。
私が宗教や宗派というものを意識したのは、これが初めてだったかもしれません。
極めて日本的ですよね。自分や家族の宗教について、あるいは宗教について、日常的にはほとんど意識していない。意識するのは死が訪れたときだけ。クリスチャンの父親を仏式で送り出してからようやく「どういう送り方をすればよかったんだろう?」と悩み始めたのです。
母も私も、宗教への意識に関しては平均的な日本人レベルだったようです。
私が最初に通った幼稚園はキリスト教系でした。東方に輝く星を見て、イエスの誕生を知った三博士が祝福に訪れる。クリスマスが近づくと、この定番劇が演じられます。その後、引っ越し先で通った幼稚園では花祭りがありました。ブッダの誕生をお祝いするのですから、仏教系だったのでしょう。
こうしたどっちつかずな環境の中で、私はどの宗教を信じるでもない典型的な日本人に育ちました。高校の倫理・社会の授業で、キリスト教についてのレポートをまとめなさいという課題が出たとき、初めて新約聖書を本気で読みました。人知を超えた超自然的な存在というものがどこにあるかもしれない―と思いながらも、イエスについてどう考えればいいのか悩みました。この世のすべてを創った神様がいるという考え方も、何かしっくりこないまま大人になりました。
しかし、第一章に記したように。取材などで海外に行く機会が増えると、宗教を意識せざるをえません。
キリスト教ヤイスラム教の聖地は、確かに心安らかになれる居心地のいい雰囲気の場所ばかりです。洋の東西を問わず、人間が心地よいと感じることにそれほど違いはないのです。
ただ、教えとして自分にしっくりくるのは、やはり仏教ではないかと次第に思うようになりました。この世を創った絶対的な神様などいない。宇宙には始まりも終わりもない―こうした仏教の世界観は、信仰をも持っていなくても受け入れられるものです。キリスト教やイスラム教の教えは、基本的には人が変えることのできない厳密なルールに基づいていますが、仏教には懐の深さを感じます。
ダライ・ラマ法王との出会いによって、仏教の説く教えこそ、生きていく上での道しるべ、あるいは灯明として活かしていけそうだと確信できるようになりました。
私は結局、仏教徒なのかなと思えるようになったのです。
第三章 「仏教で人は救われるのか?」
転載:『池上彰と考える、仏教って何ですか?』 池上彰著 飛鳥新書 2014.10.20
2012年8月に刊行された単行本に加筆・修正を加えて文庫化したものです。
父が亡くなると、母は何の疑いもなく、僧侶を呼んで仏教式の葬儀を行ないました。我が家はもともと日蓮宗なのです。教会の牧師さんは、父が亡くなったことを知って、弔問に来てくださいました。母は、このとき初めて気づいたようです。
「仏式の葬儀でよかったのかしら?本人はキリスト教式を望んでいたのでは?」と。
私が宗教や宗派というものを意識したのは、これが初めてだったかもしれません。
極めて日本的ですよね。自分や家族の宗教について、あるいは宗教について、日常的にはほとんど意識していない。意識するのは死が訪れたときだけ。クリスチャンの父親を仏式で送り出してからようやく「どういう送り方をすればよかったんだろう?」と悩み始めたのです。
母も私も、宗教への意識に関しては平均的な日本人レベルだったようです。
私が最初に通った幼稚園はキリスト教系でした。東方に輝く星を見て、イエスの誕生を知った三博士が祝福に訪れる。クリスマスが近づくと、この定番劇が演じられます。その後、引っ越し先で通った幼稚園では花祭りがありました。ブッダの誕生をお祝いするのですから、仏教系だったのでしょう。
こうしたどっちつかずな環境の中で、私はどの宗教を信じるでもない典型的な日本人に育ちました。高校の倫理・社会の授業で、キリスト教についてのレポートをまとめなさいという課題が出たとき、初めて新約聖書を本気で読みました。人知を超えた超自然的な存在というものがどこにあるかもしれない―と思いながらも、イエスについてどう考えればいいのか悩みました。この世のすべてを創った神様がいるという考え方も、何かしっくりこないまま大人になりました。
しかし、第一章に記したように。取材などで海外に行く機会が増えると、宗教を意識せざるをえません。
キリスト教ヤイスラム教の聖地は、確かに心安らかになれる居心地のいい雰囲気の場所ばかりです。洋の東西を問わず、人間が心地よいと感じることにそれほど違いはないのです。
ただ、教えとして自分にしっくりくるのは、やはり仏教ではないかと次第に思うようになりました。この世を創った絶対的な神様などいない。宇宙には始まりも終わりもない―こうした仏教の世界観は、信仰をも持っていなくても受け入れられるものです。キリスト教やイスラム教の教えは、基本的には人が変えることのできない厳密なルールに基づいていますが、仏教には懐の深さを感じます。
ダライ・ラマ法王との出会いによって、仏教の説く教えこそ、生きていく上での道しるべ、あるいは灯明として活かしていけそうだと確信できるようになりました。
私は結局、仏教徒なのかなと思えるようになったのです。
第三章 「仏教で人は救われるのか?」
転載:『池上彰と考える、仏教って何ですか?』 池上彰著 飛鳥新書 2014.10.20
2012年8月に刊行された単行本に加筆・修正を加えて文庫化したものです。