ハルマゲドンの大峠 ノストラダムス予言研究家ザール隊長

日月神示:春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠越せんことになるぞ。 日月神示を参考にノストラダムスの予言を研究しています。2016年から2025年までは正念場のときです。2023年、北海道の長雨から日本はいよいよ厳しい状況となります。2024年は北日本と首都直下の大地震があるようです。北海道・東北・関東はほぼ間違いなく住めなくなくなりますね。国民は淘汰され、3500万人ほどになるようです。日月神示では掃除・洗濯・身魂磨き・改心という言葉が頻繁に使われています。カルマの浄化が大切です。 日月神示に関しては中矢伸一さんの著書などから転載した記事もあるので読んでいただければ幸いです。

カテゴリ:仏教って何ですか/池上彰 > 仏教で人は救われるのか

 私の父はクリスチャンでした。無教会派のキリスト教思想家、内村鑑三(かんぞう)に傾倒していたようで、自宅にも全集がおいてありましたが、父自身は近所の教会に通っていました。父自身は近所の教会に通っていました。私自身も父に連れられて教会の日曜学校に行ったことを、おぼろげながら覚えています。

 父が亡くなると、母は何の疑いもなく、僧侶を呼んで仏教式の葬儀を行ないました。我が家はもともと日蓮宗なのです。教会の牧師さんは、父が亡くなったことを知って、弔問に来てくださいました。母は、このとき初めて気づいたようです。
 「仏式の葬儀でよかったのかしら?本人はキリスト教式を望んでいたのでは?」と。
 私が宗教や宗派というものを意識したのは、これが初めてだったかもしれません。
 極めて日本的ですよね。自分や家族の宗教について、あるいは宗教について、日常的にはほとんど意識していない。意識するのは死が訪れたときだけ。クリスチャンの父親を仏式で送り出してからようやく「どういう送り方をすればよかったんだろう?」と悩み始めたのです。
 母も私も、宗教への意識に関しては平均的な日本人レベルだったようです。

 私が最初に通った幼稚園はキリスト教系でした。東方に輝く星を見て、イエスの誕生を知った三博士が祝福に訪れる。クリスマスが近づくと、この定番劇が演じられます。その後、引っ越し先で通った幼稚園では花祭りがありました。ブッダの誕生をお祝いするのですから、仏教系だったのでしょう。
 こうしたどっちつかずな環境の中で、私はどの宗教を信じるでもない典型的な日本人に育ちました。高校の倫理・社会の授業で、キリスト教についてのレポートをまとめなさいという課題が出たとき、初めて新約聖書を本気で読みました。人知を超えた超自然的な存在というものがどこにあるかもしれない―と思いながらも、イエスについてどう考えればいいのか悩みました。この世のすべてを創った神様がいるという考え方も、何かしっくりこないまま大人になりました。
 しかし、第一章に記したように。取材などで海外に行く機会が増えると、宗教を意識せざるをえません。

 キリスト教ヤイスラム教の聖地は、確かに心安らかになれる居心地のいい雰囲気の場所ばかりです。洋の東西を問わず、人間が心地よいと感じることにそれほど違いはないのです。
 ただ、教えとして自分にしっくりくるのは、やはり仏教ではないかと次第に思うようになりました。この世を創った絶対的な神様などいない。宇宙には始まりも終わりもない―こうした仏教の世界観は、信仰をも持っていなくても受け入れられるものです。キリスト教やイスラム教の教えは、基本的には人が変えることのできない厳密なルールに基づいていますが、仏教には懐の深さを感じます。 
 ダライ・ラマ法王との出会いによって、仏教の説く教えこそ、生きていく上での道しるべ、あるいは灯明として活かしていけそうだと確信できるようになりました。
私は結局、仏教徒なのかなと思えるようになったのです。


イメージ 1
イメージ 1


















第三章 「仏教で人は救われるのか?」 

載:『池上彰と考える、仏教って何ですか?』 池上彰著 飛鳥新書 2014.10.20
    2012年8月に刊行された単行本に加筆・修正を加えて文庫化したものです。

 イギリスの物理学者、スティーブン・ホーキング博士は2011年に記した著書『ホーキング、宇宙と人間を語る』(エクスナレッジ 2010年)の中で、「宇宙を生成して発展させるのに神に訴える必要はない」と述べ、物議をかもしました。キリスト教圏では聖書の天地創造説が広く信じられているからです。
 日本人にはピンときませんが、こうした発言がニュースになること自体、欧米においていかにキリスト教の存在が大きいかを表しています。アメリカではチャールズ・ダーウィンの進化論を学校で教えることに対する反発が強く、進化論を信じているアメリカ人はわずか4割しかいないという調査もあります。「人間は神が自らの姿にならって創造した」という聖書の教えのほうが信じられているのです。

 ホーキング博士は、1989年の著書『ホーキング、宇宙を語るーービッグバンからブラックホールまで』で、「(人間や宇宙が存在しているのはなぜかという問題に対する)答えが見出されば、それは人間の理性の究極的な勝利となるだろうーーーなぜならそのとき、神の心をわれわれは知るのだから」と記していました。
  宇宙の始まりである真空の揺らぎに最初の一撃を加えてビッグバンを起こしたのは神であろうと、キリスト教徒も納得できる隙がまだあったのです。しかし、4半世紀の研究の結果、博士は神を否定するに至ったのかもしれません。
 歴史的には、キリスト教圏で科学が発展したのは、世界を創造した神の偉大さを証明するためです。しかし、発展の先に行き着いたのが、聖書と相容れない進化論であり、ホーキング博士の宇宙論でした。宇宙や世界のことがわかればわかるほど、キリスト教にとって不都合が生じてしまうのです。

 一方、仏教では創造主といった存在を想定していません。すべての現象は原因と結果の連なりである因果で成り立っています。物事には必ず原因があって結果が生じます。実に科学的が態度です。
 自然科学はもちろん、政治学も経済学も、あらゆる学問は、世の中の動きを合理的に、矛盾なく説明するために発展しました。因果のメカニズムを一生懸命解明しようとしているのです。

 ダライ・ラマ法王も高名な科学者との対話を頻繁に行っています。仏教と最新の科学理論とは矛盾しないため、きちんと議論がかみ合うのです。
 チベット仏教では、僧侶の昇進試験はペーパーテストではなく、問答による実技試験が中心だそうです。問答といっても、日本の禅問答のように、雲をつかむような議論ではありません。チベット仏教の修行のなかでは、論理学が非常に重視されており、隙のない論理の積み重ねによる議論を、徹底的に訓練します。そうした修行の頂点にあるダライ・ラマ法王なのですから、その議論の進め方はきわめて論理的です。
 因果を問いたブッダは、きっと理屈っぽい人だったのでしょう。証明しようのない死後の世界を語りはしませんでしたし、人知を超える占いや呪術の類いは排除しました。
 私たちがいま当たり前に使っている数字のゼロという数字、このゼロという概念もインドで生まれました。インドで発見されるまで、ゼロという概念はなかったのです。
 今でもインド人は非常に理屈っぽく、理詰めで議論するのが好きです。IT大国になったのも、論理的な思考を持つという素地があったからかもしれません。
 脱線しましたが、私が仏教を心地よいと感じるのは、その寛容さとともに、科学的な姿勢を持っているからでもあります。

載:『池上彰と考える、仏教って何ですか?』 池上彰著 飛鳥新書 2014.10.20
    2012年8月に刊行された単行本に加筆・修正を加えて文庫化したものです。

過去の記事:進化論 http://blogs.yahoo.co.jp/shimataka373/18321850.html

 東日本大震災や福島原発事故という困難を経て、私たちが将来に抱く不安は、かつてなく高まっています。日本人の寿命が延び、現役引退後に20年、30年といった余生が得られるのは本来喜ばしいことですが、不安を抱えたまま過ごす時間も長くなったのです。
 そんな不安を和らげるために、仏教を活かすことはできないでしょうか?

 ダラムサラでお経を伺った高僧、タムトク・リンポチェは、わたしたちの心を不安にさせているものを「煩悩」と表現しました。ダライ・ラマ法王はそれを一般的な言葉で「破壊的な感情」と言い換えました。
 人生が思い通りにならないから怒ったり、嘆き悲しんだり、妬んだりする心の動きが煩悩です。家族や友人との関係を大切にするあまり、そこに囚われてしまうのもまた煩悩です。これらは人として生きていく上で、誰もが抱いてしまう感情です。ダラムサラで話を聞いた23歳の修行僧もこう語っていました。

 「煩悩がないとしたら、それはもう悟りの境地であり、私にはまだまだ遠い存在です」

 ダライ・ラマ法王は煩悩というネガティブな感情を抑えつけるのではなく、誰でも本来備わっている愛や慈悲といったポジティブな感情を高めていくことで、克服できると教えてくださいました。
 腹が立ったら、相手の立場になって考えてみる。悲しいときは、もっと大きな悲しみを抱えている人が大勢いることを思い出してみる。あなたも、こうした感情のコントロール法を、人生経験の中で身につけてきたのではないでしょうか?

 愛や慈悲という堅苦しいですが、やさしさと思いやりということです。自分の利益のためではなく、他人の幸せにつながるような言葉や行ないを普段から心がけることで、どんな局面でも、ポジテイブな感情が先に生じるような癖がつけられるのです。こうした心のトレーニングなら、今日からでも始められそうです。
 法王がおっしゃるように、仏教が追及してきた人間の心の機能やトレーニングは、信仰の有無にかかわらず教養として役に立ちます。世の中の一人ひとりが社会において経験を積んだ、何らかのプロであるように、仏教の僧侶は人間のはたらきと制御法に向き合い続けてきたプロなのです。逆境を乗り越えるために、その技術を活かさない手はありません。
 
 東日本大震災は今なお大きな悲しみをもたらしていますが、未曾有の惨事をきっかけに、人と人との絆を大切にしようという機運も、かつてなく高まっています。インターネットなどのメディアを通じて、困っている人、悲しんでいる人に思いを寄せる機会は格段に増え、ボランティアなどの行動を起こす人も珍しくなくなりました。
 やさしさや思いやりを分かち合うことが、照れくさい思いをすることなく堂々とできるようになったこの時代、私たちは本来持っているやさしさや思いやりを遠慮なく発揮できるのです。
 私も最近ようやくだいぶ丸くなったと言われるようになりました。仏教の目指す境地に少しでも近づいているのならいいのですが・・・・・・。

載:『池上彰と考える、仏教って何ですか?』 池上彰著 飛鳥新書 2014.10.20
    2012年8月に刊行された単行本に加筆・修正を加えて文庫化したものです。

 私たちが抱く不安の最たるものが、死に対する恐怖ではないでしょうか。生老病死のうち、人が最後に経験する苦しみです。寿命が延びた分、死と向き合う時間もまた長くなっています。
 私は死ぬのが怖いと思ったことはありませんが、子どもの頃、意識がなくなるということが怖かった覚えがあります。

 眠ると朝まで意識がありませんよね。それが怖かったのです。親に言っても、別に死ぬわけじゃないから大丈夫だよと、怖さをわかってもらえませんでした。今でも極端に疲れているときには、時々同じような恐怖を感じます。
 普通は怖いと感じる間もなく寝入ってしまいます。イラクのバクダッドでは、ロケットがすぐ近くに着弾しても、気づくことなくぐっすり寝ていました。死ぬときは死ぬのだから仕方ない。そう肝を据えられるようになったのでしょう。
 
 なせなら、私はジャーナリストとしてたくさんの死を見てきたからです。NHK記者として、人が大勢なくなった現場に駆けつけるのが仕事でした。特に警視庁を担当していた時代には、あらゆる亡くなり方をした遺体を見ました。
 1980年の川治プリンスホテル火災では、湯治に来ていたおじいさん、おばあさんが大勢犠牲になりました。現場では、遺体を置く場所がないため、空き地にずらり並べてあるのです。その横で事件をレポートしました。
 同年、12人が亡くなる富士山落石事故があり、ご家族と一緒に全員の身元の確認に立ち会いました。
 1983年の日本海中部地震では、小学校13人が波に飲まれました。私は海から遺体があがるのを逐一見届けました。

 人間というのは、こういうことでも続けていると慣れてしまうものです。私にとって死は非常に身近なものとなりました。自然な死であれ、不自然な死であれ、死というのは必すいつか来るのだということを自然に受け入れられるようになったのです。

 人は生まれてから刻一刻と死に向かって近づいています。生きているだけでも、もうけもの。ありがたいことなのです。
 もちろん、私の例は特殊すぎますね。
 人間はなるべく死から遠ざかるように、長く生きられるように医学分野で研究をしたり、事故が起こらないように気をつけたりしてきました。特に日本人は死を穢(けが)れととらえ、なるべく目の届かないところに遠ざけてきました。
 自宅で死を迎える人も少なくなりました。入院していると、死を看取るという機会も、なかなかありません。昔のように大家族ではありませんから、身近な人が亡くなるということも減っています。

 人がどのように亡くなっていくのかという事実が、どんどん現実味を失っているように思えます。死を洗いざらい見せろというつもりはありませんが、隠しすぎるのも問題です。周りの人の死を経験することで、死に備えることができるという側面もあるのです。身近な人の死に際して、どのように心の準備をし、そして、気持ちに区切りをつけて立ち直っていくのか、経験する機会が著しく減っています。
 死を遠ざけることにより、傷つくことは避けられますが、突然、身近に死が迫ってきたとき、対処できなくなってしまう可能性もあります。まるで無菌状態で育ったために免疫が弱くなってしまうようなものです。

載:『池上彰と考える、仏教って何ですか?』 池上彰著 飛鳥新書 2014.10.20
    2012年8月に刊行された単行本に加筆・修正を加えて文庫化したものです。

↑このページのトップヘ