ハルマゲドンの大峠 ノストラダムス予言研究家ザール隊長

日月神示:春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠越せんことになるぞ。 日月神示を参考にノストラダムスの予言を研究しています。2016年から2025年までは正念場のときです。2023年、北海道の長雨から日本はいよいよ厳しい状況となります。2024年は北日本と首都直下の大地震があるようです。北海道・東北・関東はほぼ間違いなく住めなくなくなりますね。国民は淘汰され、3500万人ほどになるようです。日月神示では掃除・洗濯・身魂磨き・改心という言葉が頻繁に使われています。カルマの浄化が大切です。 日月神示に関しては中矢伸一さんの著書などから転載した記事もあるので読んでいただければ幸いです。

カテゴリ: 「カルマの法則」/ダライ・ラマ

 人が心をこめて善かれと意図したことも、ときとして最悪の結果を招来することがある。それとは逆に、邪悪な心の動きに導かれてさえ、たまたま善い結果を見出す場合もある。ならば、意図がいかであれ、結果さえ善ければそれでいいのだろうか。否である。善き意図こそ大切なのだ。
 特定の行為の善悪を分ける実際の境界区分を見つけることは、はなはだむずかしい。行為そのものが存在するところの基盤についても判定しなければならないからだ。しかし、物事を究極までつきつめたところでは、意図と結果が、それぞれの行為の善悪を判定する主たるふたつの要素であろう。

三章 カルマの法則

転載:『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』 ダライ・ラマ14世、大谷幸三 角川ソフィア文庫  2008/07/25
(底本:ダライ・ラマ14世、 大谷幸三 『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』(クレスト社 1994年刊)

 例を挙げて見ていくことにしましょう。たとえば暴力。暴力的に見える言葉、あるいは、目の前には暴力として表現されたある種の行為がったとしても、それが実際には暴力などといった悪しき行為などではないことがある。ただ、同情心、思いやり、慈しみにあふれた心が、たまたまひどい言葉となったり、物理的にも荒々しい働きかけとなったりすることがある。人をうったりする場合さえあるだろう。だが、心の深層に潜むその行動を突き動かしてものは、本物の親愛の情、人を慈しむ心である。この場合、意図は正しい。
 ではこうした場合はどうか。優しく甘味な言葉で語りかけ、微笑み、あるいは、贈り物などして、人を欺こうという場合である。行為そのものは暴力的でもなければ、人をいたぶり苦しめるものでもない。結果はともあれ、表面には暴力としては表現されない。だが、その意図においてこれは悪であり、暴力そのものである。
 非暴力とは本質的に慈悲心の発露である。したがって、慈悲心に動機づけられた行為はすべて非暴力的である。憎悪より出た行為はすべて暴力とみなしていい。こおまでくれば後は明瞭だ。物事は、結果よりはるかに意図がはるかに重要だということが。

 14世ダライ・ラマ自身、最も尊敬する人物として、非暴力を貫いたインド独立運動の指導者、マハトマ・ガンディーを挙げている。
 これには議論の余地はなく、マハトマ・ガンディーほど卓抜した人物はいないだろうと言う。だが、彼は仏教徒ではないわけで、この点にも味わい深いものがある。
 非暴力というと、大昔から立派なものだと考えられてきたようにわれわれは錯覚する。だが、非暴力の価値が認知されたのはガンディー以降のことである。それまでの世界の価値基準からいえば、非暴力など、たかが腰抜けのたわごとにすぎなかった。
 力こそ、いや暴力こそが善であり、正義であったのである。宗教さえも暴力を背景に成長を遂げてきた。まつろわぬ者は殺してもさしつかえなかったのである。
 ガンディーは、人間の平等とインドの独立という大目標を掲げ、それを徹底した非暴力で実現しようとした。暴力によって実現できたはずのインドの独立はガンディーの不屈の意志力によって達成された。だが、非暴力によらずには成しえない人間の平等は達成されることはなかった。
 ガンディーの絶望は深かったことだろう。
 (大谷幸三)

三章 カルマの法則

転載:『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』 ダライ・ラマ14世、大谷幸三 角川ソフィア文庫  2008/07/25
(底本:ダライ・ラマ14世、 大谷幸三 『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』(クレスト社 1994年刊)

 では、道義心という観点から導き出される見解を述べてみよう。このとき、ある場合においては、意図はそれほど善悪の判断に関連してこない。意図そのものの重要度は低いという場合がある。行為そのものがより大きな意味を帯びる。そういう場合である。
 ここに花がある。われわれは花の世話をする。われわれが花を慈しむのは、花がなんらかの有用なものであると思うからである。だから、花からの見返り、具体的な花からの働きかけがないにもかかわらず、われわれは花を植え、水をやり、可愛がる。花は美しく、心を和ませてくれるからである。
 だが、花にはまったくその意図はない。われわれを楽しませようとする意図は花には皆無である。したがって、こうしたときには、意図よりも行為を、行為と呼ぶよりは、そのものがあることによって及ぼす影響を、重視するように考慮すべきだろう。花は何一つ意図しないにもかかわらず、われわれは花から多大の恩恵を受けている。花がわれわれに与えているものは、厳然としてそこにある。
 これと同様に、行為が意図に優先するような場合が他にも考えられる。意図とは無関係に行為が大切な役割を演じるような場面が存在する。意図しないままに他者に恩恵を施したり、施されたりすることが、現実の世界にはいくらでもある。特定の事象にしぼって考慮すれば、意図とはかかわりなく、行為がその価値を決定することはよくあることである。
 だが、宗教心の観点より考察したとき、意図は必ず結果より重要である。物事の善悪を見極めようとするとき、意図こそが最も尊重すべきものであることは間違いない。

 宗教的立場では、手段と目的は同じ比重、つまり等価とされる。一方、現実世界たとえば政治の世界では、マキャベリーの「目的のためには手段を選ばず」という言葉に代表されるように、手段は往々にして目的のために小道具とされる。
 ここで、ダライ・ラマは結果より意図を重視せよと強調するが、これは、今述べた宗教的立場に立脚して考察するとき、その真意は明確となるだろう。
 (大谷幸三)

三章 カルマの法則

転載:『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』 ダライ・ラマ14世、大谷幸三 角川ソフィア文庫  2008/07/25
(底本:ダライ・ラマ14世、 大谷幸三 『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』(クレスト社 1994年刊)

 人はときとして、より大きな危険、よりひどい結末を回避するため、嘘をつくこともあれば、ある種の罠うぃしかけたりする。
 これは悪しき意図ではないのか。否である。
 これもまた宗教心の視点を用いれば、よき意図、動機に含まれると考えるべきである。より長期的な視野から見て、より大きな社会的な意味を持つ、より大いなる理由を有する事柄を達成せんとする意図であり、動機である。
 心底から正直な動機とは、肯定されるべき嘘を稀に交える場合もあるということだ。

 『法華経』は、大乗仏教では最も重要な教典とされている。というのも、『法華経』によって「人間はみな仏性(ぶっしょう)を備えている」という人間観が定着したからである。
 仏性とは、仏になれる可能性のことで、とすれば、誰も仏の子どもということであり、仏教が完全な平等思想に基づく宗教とされるのも、この教えによる。
 この『法華経』の中に「火宅の喩え」という譬話(たとえばなし)が登場する。
 さる長者の屋敷が火事になった。長者はいち早く戸外に飛び出したが、三人の子どもは火事とも知らず、家の中で遊びふけっている。長者は「早く家から出よ」と叫ぶふぁ、子どもたちは「火事とは何か、家とは何か、焼け死ぬとはどういうことか」をまるで知らない。だから、ただ不思議そうい父の姿を見つめるだけだ。
 そこで父は、一計を案じ、彼らがかねて欲しがっていた車(羊車=ようしゃ・鹿車=ろくしゃ・牛車=ぎゅうしゃ)を買ってきたと偽った。すると、子どもたちは先を争って唯(ただ)一つの出口から外に出たが、車がないので「お父さんは嘘をついた」と激しく責めた。
 そこで父は、大きくてスピードの速い白牛(びゃくご)の車を彼らに与え、満足させてやった。

 これが「「火宅の喩え」のあらましだが、火宅とは私たちが住む娑婆であり人生である。では、長者の嘘をどう考えればよいのか。この喩えを釈尊から聞いた舎利子(しゃりし)は、「師よ、嘘を言ったことにはならない。長者は子どもらを大きな苦しみから解放しようとして、巧妙な方法を用いただけなのだから」と答えている。
 舎利子とは釈尊の十大弟子の一人で、智慧第一とされた人物だが、この舎利子の答えの中に『法華経』の重要な教えの一つである「方便」の本質が語られており、ここから日本の「嘘も方便」という諺も生まれたわけである。
 (大谷幸三) 

三章 カルマの法則

転載:『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』 ダライ・ラマ14世、大谷幸三 角川ソフィア文庫  2008/07/25
(底本:ダライ・ラマ14世、 大谷幸三 『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』(クレスト社 1994年刊)

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