ハルマゲドンの大峠 ノストラダムス予言研究家ザール隊長

日月神示:春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠越せんことになるぞ。 日月神示を参考にノストラダムスの予言を研究しています。2016年から2025年までは正念場のときです。2023年、北海道の長雨から日本はいよいよ厳しい状況となります。2024年は北日本と首都直下の大地震があるようです。北海道・東北・関東はほぼ間違いなく住めなくなくなりますね。国民は淘汰され、3500万人ほどになるようです。日月神示では掃除・洗濯・身魂磨き・改心という言葉が頻繁に使われています。カルマの浄化が大切です。 日月神示に関しては中矢伸一さんの著書などから転載した記事もあるので読んでいただければ幸いです。

カテゴリ: 「輪廻転生の法則」/ダライ・ラマ

 輪廻転生について考えてみよう。
 輪廻転生の仕組みを理解することは容易なことではない。これはひじょうにユニークな発想の上に成り立った仏教思想である。輪廻とは、前世(ぜんせ)によって決定される次の生命、次々と引き継がれてゆく生きとし生けるものの生命のことである。
 この思想自体は、チベット仏教や、古くからインドの思想、哲学を信じる人たちにとって、別段目新しいことではない。しかしながら、チベットは、もちろんそこにはモンゴルなども含まれるのだが輪廻転生の受容に関して、他とは異なる仕組み、あるいは伝統を創設したと言えるだろう。
 とはいえ、それは仏教哲学、あるいは仏教的なものの観点から見て、けっして特別にユニークなものではない。誰にとっても充分に受け容れられるものであろう。 
 ドイツ人のラマ僧、アナガリカ・グヴィンダはこう書いている。
 《死から立ち戻った者がいない以上、誰も権威をもって死について語ることはできないと言われる。いったいどうやって、死とは何か、死後に何が起こるかを語りえようか
 だが、チベット人はこう答えるでああろう。実際に、死から立ち戻らなかった人間、この世に生命を有する生き物など、ひとつとして存在することはないと。事実、われわれが誕生と呼ぶものは、単に死の裏返しであるにすぎない。それはちょうど、ひとつのドアを外側からは入り口と呼び、内側からは出口と呼ぶように、同じコインの表裏を言い表しているのである》
 彼らにとって輪廻は自然の法則のようなものである。チベット人だけでない。インドの大多数の人々の大多数の人々も、輪廻をごくあたり前のこととして受け入れている。

第二章 輪廻転生の法則

転載:『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』 ダライ・ラマ14世、大谷幸三 角川ソフィア文庫  2008/07/25
(底本:ダライ・ラマ14世、 大谷幸三 『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』(クレスト社 1994年刊)

 さて、輪廻転生、生命の再生は特定の選ばれた者にだけ起こるわけではない。仏教的な観点から言えば、輪廻思想を受け入れるか受け入れないかにかかわらず、輪廻転生はすべての生きとし生けるもの、それらはすべて一つの生命の後に次の生命を生きるというふうに、次々と生命を継いでいく。生命の輪は継続して回りつづける。

 輪廻はサンスクリット語ではサンサーラ。もともとは、ぐるぐる同じところを巡る意味を持つ。この語は現代では世界という意味で使われるが、仏教ではすべての生き物は輪廻によって世界を巡るとされる。世界とは上は最も修行を積んだ、ほとんど仏になる一歩手前の人が行く無色界(むしきかい)から、相当なヨガの修行を身につけた人の色界(しきかい)、その下の欲望を持つものが住む欲界(よくかい)まで三段階に分かれている。欲界の中でも最低は八大地獄である。その中でいちばん下が無間地獄(むけんじごく)と呼ばれる。
 (大谷幸三)

第二章 輪廻転生の法則

転載:『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』 ダライ・ラマ14世、大谷幸三 角川ソフィア文庫  2008/07/25
(底本:ダライ・ラマ14世、 大谷幸三 『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』(クレスト社 1994年刊)

 私が考えるに、輪廻転生という用語自体は、自分自身の来世の行き先、すなわち生まれ変わる時と場所を選び取ることができるような人々、あるいは生きとし生ける存在に対して、そもそも与えられたものだろう。
 これは少しばかりむずかしい話になる。仏教的な観点から考えると、輪廻転生とは個々の到達した内面、もしくは実践の高さによっては、次の生命を自ら選び取ることが可能だということを意味している。
 それぞれが到達した精神的、あるいは実践的高みから、生あるものは来世を選び取れ、しかも、それは必ずしも一つの生命ではなく、複数の、ときに多くの生命を同時に選び取れるということである。
 だが、これはあくまでも、その個々の存在が到達した高さの水準のいかんにかかわっていることだ。


 ヒンドゥー教の輪廻思想においても、ヨガの修行を積んだ者は、次に生まれるときに両親を選べるとする考え方がある。しかし、チベット仏教のように、特定の人間、それがごく限られたひじょうに高い次元に到達した僧侶であるにせよ、同じ人間が生まれ変わって活仏(かつぶつ)として生き継ぐという考え方はない。この活仏の存在はチベット仏教のユニウークな面だろう。
 活仏とはチベットではトゥルクよ呼ばれるが、彼らは死ぬと最大限で49日のうちに、世界のどこかに必ず生まれ変わって現われるという。
 チベットにはたくさんのトゥルクがおり、千数百とするものから数千のトゥルクがいるとする説もある。
 彼らが本当に活仏であるかどうかはもちろん誰にもわからない。
 しかし、不思議なことだが、活仏とされる子どもたちは一目見るとそれとわかる風貌、眼光を持っている。その子どもの両親、兄弟たちとはまるで異なる場合が多い。
 14世ダライ・ラマのように、同じ両親から生まれた兄弟の中から、彼を含めて二人のトゥルクが出ることはきわめて稀な例である。
 ダライ・ラマの長兄で、やはりトゥルクであったタクツェル・リンポチェは亡命後、還俗して一般人としても生活を送っているといわれる。
 
 ダライ・ラマの目は表情豊かだ。真剣に人の話を聞き入っているとにきは、恐ろしいほど厳しい光をたたえている。それが、何か面白いたとえ話が浮かんだりすると、突然、いたずらっこのような目つきになる。姿勢はいつも左右どちらかに重心をかけ、常に対話の相手に視線を向けている。
 顔全体の表情は信じられないほど変化する。ひとりの人間の顔でありながら、何百もの人物を前にしている錯覚に陥るほどである。
 (大谷幸三)

第二章 輪廻転生の法則

転載:『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』 ダライ・ラマ14世、大谷幸三 角川ソフィア文庫  2008/07/25
(底本:ダライ・ラマ14世、 大谷幸三 『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』(クレスト社 1994年刊)

 飛び抜けて深く、強い精神的な経験、実践を重ねてきた魂、そのような存在にとっては、一つの生命がついえたからといって、また新たな一つの肉体が必要というわけではない。むしろ、そんなものは不必要である。
 そうした存在は、一つの輪廻から十の輪廻を実現するだろうし、ときに数百の輪廻、数千の輪廻をも、それも同時進行的に行なうものなのだ。深く深く精神の最深部まで到達した存在にとっては、こうした輪廻転生の形態もありうる。もちろん、これは言葉で表現できないほど困難な道ではあるのがだが。
 複数の輪廻が同時に可能になるという思想の形を信じることは容易なことではない。こうした考えを受け容れることは誰にとってもむずかしい。学び、経験し、相当の水準に達した者さえ、これを思い描くことは困難であり、大きな苦労を伴うものだろう。そう言う私自身も、ときにむずかしいと感じることがある。輪廻思想は奥深いものだ。

 輪廻を表面的に理解すると、人口は増減しないことになってしまう。人は生まれず、死なず、そこにあるのだから、人口は増えも減りもしない、と。
 チベット社会が世界で輪廻思想を最も厳格に守ってきたのは、チベットの風土の厳しさが原因だろう。平均高度が四千メートルを超す高地で、人口が増加すればすぐに食糧の不足をきたす。今世紀に入るまでに、チベットの人口はすでに飽和点に達し、その段階で長く止(とど)まっていた。そのような社会で、輪廻は実証的なものとしてとらえられても不思議ではない。
 中世ヨーロッパはペストの大流行によって人口が激減した。その後のヨーロッパは双子の誕生が著しく多くなったという伝聞をもって、輪廻思想の科学性を近代インドを代表するヒンドゥー宗教家、スワミ・ヴィヴェベーカーナンダは説いている。
 しかし、一人の人物が複数の人間に転生する。または、複数の人間が一人の人間として生まれ変わるとする考え方に立てば、人口の増減はまったく矛盾のないものとなる。

  (大谷幸三)

第二章 輪廻転生の法則

転載:『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』 ダライ・ラマ14世、大谷幸三 角川ソフィア文庫  2008/07/25
(底本:ダライ・ラマ14世、 大谷幸三 『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』(クレスト社 1994年刊)

大谷氏は、人間はこの地球にしか存在しない、人間が人間に転生する、という考え方のもとに持論を述べらています。ダライ・ラマ14世の著書を出されているわりには仏教の理解が不十分です。

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