ハルマゲドンの大峠 ノストラダムス予言研究家ザール隊長

日月神示:春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠越せんことになるぞ。 日月神示を参考にノストラダムスの予言を研究しています。2016年から2025年までは正念場のときです。2023年、北海道の長雨から日本はいよいよ厳しい状況となります。2024年は北日本と首都直下の大地震があるようです。北海道・東北・関東はほぼ間違いなく住めなくなくなりますね。国民は淘汰され、3500万人ほどになるようです。日月神示では掃除・洗濯・身魂磨き・改心という言葉が頻繁に使われています。カルマの浄化が大切です。 日月神示に関しては中矢伸一さんの著書などから転載した記事もあるので読んでいただければ幸いです。

カテゴリ: 肉食の問題点(なわふみひと)

まず、幕末名医の食養学』(沼田勇・著/光文社)の抜粋から――。ここでいう幕末の名医とは石塚左玄のことです。


『幕末名医の食養学』 沼田勇・著 光文社

 肉食後、体内はどうなるか

  仏教伝来後、肉食の習慣を断ってきた日本人が、何万年も肉食をつづけてきた欧米人なみの食生活に軽々しく切り替えてよいはずがありません。前にも記したように、モンゴリアンが肉食のイヌイットになるには1~2万年の年月と厳しい淘汰が必要だったのです。
  私たちが動物性食品を摂取すると、腸内菌はあの鼻持ちならぬ悪臭を発する化学変化を起こし、肝臓はそれを解毒するための働きを求められます。その肝臓に障害があれば、もちろん解毒できなくなり、その結果、アンモニア血症や肝性脳症、肝性昏睡などを引き起こします。寿命や老化に腸内菌が深くかかわっていることは明らかです。
  肉食後の糞便のインドール(不快臭)は、菜食の場合の10倍になるといわれます。たとえ必須アミノ酸から成る優れた蛋白質でも、過剰に摂りこまれた分は排泄されるか、さもなければ肝臓に負担をかけるアンモニアの原料になります。しかもそのアンモニアは肝臓で尿素になり、これを排泄するにはたくさんの水を使わなければならず、排泄が不十分だと尿素から尿酸がつくられ、これが結晶状のまま関節周辺の軟組織に蓄積されて、あの激痛を伴う痛風を引き起こすのです。
  肉を食べると当然、肉に含まれている燐酸や硫酸が血液を酸性にするので、これを中和させるために歯や骨のカルシウムを溶かすことになります。肉食の欧米人に骨粗しょう症や骨の多孔症、骨のわん曲が多いのはそのせいなのです。

 ヨーロッパ人と肉食

  ヨーロッパ人は昔から、ずっと肉食をつづけてきましたが、それにはそれなりの背景があります。
  日本では台風も含めて多量の雨が降り、夏には太陽が照りつけるため、牧畜に向かない繊維の硬い植物が繁茂しています。この気候風土が日本人を、米や雑穀、野菜などをつくられる農耕民族にしたのです。牛1頭を飼うには1ヘクタールの牧草を必要としますが、その1ヘクタールから穫れる米は30俵から160俵で、12人から64人の人間を養うことができます。つまり日本は、その労力さえ惜しまなければ、牧畜よりはるかに効率のよい食糧(米)をつくる条件を備えているのです。
     


  次は体によい食事 ダメな食事』(幕内秀夫・著/三笠書房)の抜粋です。さらに詳しい内容をBookstandの「食べ物」のところに載せています。


『体によい食事 ダメな食事』 幕内秀夫・著 三笠書房

 「日本人は不思議なほど達者である――ザビエルが日本食を絶賛した理由

  パプアニューギニアの高地に生活する人たちは、食事の90%以上がサツマイモで、肉や牛乳はほとんど口にしません。それでいて、筋骨たくましくよく働くといいます。日本の長寿村といわれた山梨県の棡原村の長寿者も、肉や牛乳などはほとんど食べなくても、なんら困ることなく重労働をこなしてきた人たちです。
  あるいは、宗教的理由つまり戒律によって「肉を食べない」という人たちが世界にはたくさんいます。しかし、それらの人たちに特別に貧血が多いとか、がりがりにやせて力仕事もできない、などという話も聞いたことがありません。

  日本の土を踏んだフランシスコ・ザビエル神父が本部あてに出した手紙には、次のように書かれています。

  日本人は自分たちが飼う家畜を屠殺することもせず、またこれを食べもしない。彼らはときどき魚を食膳に供し、ほとんど米麦飯のみを食べるが、これも意外に少量である。ただし彼らが食べる野菜は豊富にあり、またわずかではあるが果物もある。
  それでいて日本人は不思議なほど達者であり、高齢に達する者も多い。したがって、たとえ口腹が満足しなくても、人間の体質は僅少な食物によって十分な健康を保てるものであることは、日本の場合によっても明らかである。


  まさに、日本人は肉や牛乳などほとんど口にせずに生きてきたのです。しかも、その歴史は10年や20年ではありません。現在の栄養教育の主張するように、本当に肉や牛乳が健康を維持するために必要なら、とっくに日本人は滅びていてもおかしくはないはずでしょう。
  そして、現在の栄養教育からすれば栄養失調だったはずの私たちの祖母は、子供を10人も産んできたのです。それも特別な話ではなく、ごく当たり前の話だったのです。

 「成長は早いが病気だらけ」の家畜――それを子供が食べているのです

  肉そのものの性質を考えても、私は肉食に否定的にならざるを得ません。
  畜産関係者にとってもっとも関心が高いのは「飼料要求率」だといいます。その動物の体重を1キログラム増やすのに何キログラムのエサを必要とするかという割合です。
  少ないエサでどんどん体重が増えてくれれば、それだけコストが安くすむからです。特に最近では大規模な集約農場が増え、ニワトリなどでは何十万羽と飼っているところもありますので、コストに大きく影響します。いかに早く太らせるか。養豚業者にとっても、ブロイラー業者にとっても大切なことになります。
  そこで多くの業者が密飼いをしているのです。豚、牛、ニワトリなどは、放し飼いをすると運動をするので、せっかくエサを与えてもエネルギーを消耗して肉付きが悪くなります。そこで考え出されたのが、動けないほどぎゅうぎゅうづめで飼うことです。それを密飼いといいます。
  成長を早くするために、エサも現在の配合飼料は高タンパク質でできています。その結果、たしかに成長は早く、飼料要求率もどんどんよくなっています。
  ただし、それに伴い病気も増えています。食肉検査は、屠殺場にきた牛や豚の内臓や肉に病変があれば、その一部または全部を廃棄処分にします。農水省の出した『家畜衛生統計』(平成14年)によると、「屠殺禁止・全部または一部廃棄」の牛は約95万頭で全体の76%、豚の場合は約100万頭で全体の66%になります。
  最近では狂牛病が問題になり、牛丼が販売中止になる騒ぎが起きました。あれはおもにアメリカの牛肉の話でしたが、日本でも次々と感染牛が発見されています。起こるべくして起きたと言わざるを得ません。飼料添加物の名で、多種多様な薬がエサに混ぜられているといいます。このような肉を食べることが本当に健康によいといえるのでしょうか。
  そして、高タンパク質・高エネルギーのエサを食べて、「成長は早いが病気だらけ」という家畜を考えたとき、現在の子供たちの姿と重なって見えてしまうのは私だけでしょうか。
    


  最後が肉食が地球を滅ぼす』(中村三郎・著/ふたばらいふ新書)の抜粋です。少し長くなりますが、これでも本の抜粋のさらなる抜粋です。食の問題について、私たちが最低知っておくべき内容が書かれていますので、ぜひ目を通していただきたいと思います。


『肉食が地球を滅ぼす』 中村三郎・著 ふたばらいふ新書

 肉食が生活習慣病を増やしていく

  戦後日本では、GHQ(連合司令部)の思惑と、アメリカ風の生活を進歩と見る風潮が重なり合って、食生活の改善(改悪)が奨励されてきた。米を主食とする日本の伝統食は、欧米の食事に比べて栄養的に問題があるとされ、また欧米人並みの体位への向上を図るために動物性タンパク質を多く摂る食生活のスタイルが植えつけられていった。
  そのため、肉や卵、牛乳、バターといった高タンパク質食品が急速に普及していく。なかでも肉の消費量は、驚異的な勢いで増加していくことになる。1955年の年間消費量は20万トン足らずだったのが、小麦食が定着した65年には100万トンに達し、その後も消費を伸ばし、2002年現在では560万トンにのぼっている。50年の間になんと30倍にも増えたのである。

  肉はたしかにうまい。そのうま味が、まず好まれるのだろう。肉がうまいのは、そこに脂肪が含まれているからだ。だが、この脂肪がくせものなのだ。肉の主成分はタンパク質と脂肪だが、分子構造上、高分子のタンパク質は味がなく、低分子の脂肪は味があるのでうまく感じる。牛肉でも豚肉でも、ロースのほうがモモ肉よりもうまいのは脂肪が多いからである。
  肉を食べる際には、うま味のある脂肪の多い肉を、つい選ぶようになる。するとタンパク質よりはるかに多く脂肪を摂取してしまう。
  脂肪は、植物性と動物性に分けられる。植物性には、必須脂肪酸であるリノール酸が多く含まれ、体内のコレステロールを下げる働きを持つ。コレステロールはご存知のように、血管内にたまって動脈硬化の原因となる物質である。動物性には飽和脂肪酸が多く、コレステロールを体内に蓄積しやすい。
  動物性脂肪を摂りすぎると、コレステロールの蓄積によって動脈硬化性疾患を引き起こし、心疾患や高血圧症、糖尿病、脳血管障害などの生活習慣病にかかることが、すでに指摘されている。アメリカ公衆衛生局の報告によると、アメリカ国内の病気による死亡者の70パーセントが動物性脂肪の過剰摂取が要因と思われる生活習慣病で死亡しているという。

  食肉消費国の欧米では、こうした動物性脂肪の摂取過多による慢性病が大きな社会問題になっているが、さらに最近増加しているのが、ガンの発生である。ガンの発生は、もちろん脂肪の摂りすぎも関係しているが、動物性タンパク質も、また大きな要因となっている。タンパク質が体内に多くなると、トリプトファンという必須アミノ酸が腸内の細菌によって分解され、発ガン物質あるいはこれを生成する物質が促進されるからだという。
  近年、アメリカでは肥満や生活習慣病を防ぐために、脂肪の少ない赤身の肉を食べる女性が多い。しかし、赤身の牛肉を毎日食べている女性は、肉を全く食べないか食べても少量の女性に比べ、大腸ガンにかかる確率が2.5倍も高かった。動物性タンパク質とガンの関連性を調べた調査では乳ガンの発生率も多かったという。また、肉の中に含まれる多量の鉄分も発ガンを促進するといわれる。つまり脂肪の多い少ないにかかわらず、肉食自体がさまざまな病気を引き起こす原因になりうるということなのである。

  日本でも、肉食の増加にともなって生活習慣病が確実に増えてきており、ガンの発生も多くなっている。それまで日本人にはほとんど見られなかった大腸ガン、乳ガン、前立腺ガンなど、食肉消費国の欧米に多いガンが顕著な増加をしている。たとえば、大腸ガンによる死亡率は、まだ肉食の習慣がなかった1944年には、10万人にわずか2人だった。当時、アメリカでは10万人に16人と日本の8倍におよんでいた。その後、日本での大腸ガンによる死亡は68年に4人、88年には12人にのぼり、そして2000年には30人と、50年でほぼ15倍に増えているのである。
  アメリカやイギリスなど食肉消費国40カ国を対象に、統計調査が行なわれたことがある。その結果、肉食による脂肪とタンパク質の摂取は、いずれの国でも動脈硬化にともなう心臓疾患、大腸ガン、乳ガン、子宮ガンなどと強い相関関係があることが示された。そして、とくにガンにおいて、米、大豆、トウモロコシなどの穀物は、その発生を抑制する働きを持つことも明らかになったという。
  また、カナダの専門家による調査報告では、食肉(特に牛肉)が、ガンの発生、進行を促すことは否定できないとし、野菜や繊維質食品を多く摂取する食生活に変えなければ、ますます病気が増えていくおそれがあると警告している。

 子供の健康を害する学校給食

  戦後、肉食を中心とした欧米風の食生活の推奨によって、日本人の体格はどんどん向上した。体が一回りも二回りも大きくなっただけでなく、脚もすらりと長くなり、スタイリッシュな体型に変わった。
  が、その一方で、ゆゆしき問題が持ち上がっているのだ。それは最近、子供たちの間にも、生活習慣病が急速に増えていることである。東京女子医大が首都圏の小、中、高校生を対象に調査した結果、20人に1人が動脈硬化や高血圧の傾向にあることがわかったという。
  子供の生活習慣病の増加には、学校給食が大いに関係しているといっていい。
  現在の学校給食には、大きく言って2つの問題がある。1つは、肉や卵、乳製品を重視した献立である。子供の発育には動物性タンパク質の摂取が不可欠であるという栄養観に立っているから、どうしても献立の食材は動物性食品に偏ってしまう。
  もう1つの問題点は、子供に動物性食品偏重の栄養知識を植えつけてしまうことだ。学校という教育環境の中で出される食事だから、頭から肉や卵、乳製品が健康に最も大事な栄養源だと信じ込んでしまう。その栄養観が家庭に持ち込まれ、つねに動物性食品がメインの食事を摂るようになる。次第にコレステロールなどの有害物質が蓄積されていき、高血圧や動脈硬化を引き起こしていく。

  今、日本人の平均寿命は、男性が77.9歳、女性84.7歳で、世界一の長寿国である。これはうれしいことだが、この長生きを現代の子供たちに求めるのは無理だろう。
  人間の健康維持能力の基礎は、だいたい15歳から20歳くらいまでの間に形成される。日本人の寿命の長さを支えているともいえるお年寄りの人たちは、明治、大正、そして昭和初期に生まれた人たちである。この人たちは、戦前、戦後を通じて、粗食とはいえ欧米化されない日本伝統の食習慣を持って生きてきた。つまり、生命力の基本を作る青春期を、日本古来の食文化の中で育ってきた人たちなのである。
  現代の子供たちを取り巻く食環境は、この人たちと正反対のところにある。飽食と動物性食品の食事にどっぷりとつかってしまっている子供たちは、だから短命に終わる可能性が高い。成人に達する頃にはさまざまな病気に苦しむことになるのではないか。

 世界に広がる日本の伝統食

  食生活の欧米化が推奨され、動物性食品を多く摂るようになって、日本人はさまざまな疾患に悩まされることになったわけだが、一方で、今、アメリカでは皮肉な現象が起こっている。日本食ブームである。
  アメリカの多くの大都市で寿司バーが続々とオープンし、スーパーでもパック入りの寿司が売り出され、テイクアウト食品として人気を集めてきている。また、豆腐やそば、そしてこれまではほとんど見向きもされなかった梅干し、納豆なども流行しだしているのだ。ハリウッドのある有名なレストランでは、カボチャや大根、ヒジキなどの煮物料理が、スターたちの間で好評を得ているという。
  食肉の日常的摂取が健康に悪いという知識が、アメリカ国民の間に広まってきている証左といえるが、この日本食ブームは、アメリカ政府が1977年に発表した「理想的な食事目標」がきっかけである。通称「マクガバン・レポート」「」といわれるもので、アメリカ国民の動物性食品の摂取が危機的過剰レベルにあるとして、摂取量の抑制基準を作成、国民に報告して食生活の改善を呼びかけたのだ。
  その内容は、戦後、西洋化する前の日本人の食事における栄養摂取と非常によく似ている。何のことはない。日本の伝統食を参考にしたものなのである。日本人にさんざん肉を食わせておきながら、日本食を「理想の食事」とは、何とも無節操な、日本を小馬鹿にした話である。

  ところが「マクガバン・レポート」を発表した後も、アメリカ国民の肉類の過剰摂取になかなか歯止めがかからない。年々、心臓病やガンなどの生活習慣病の発生が増加、死亡者が多くなっていく一方だった。国民は健康に不安感を強く募らせるようになり、肉食を中心とする食生活を改める動きが広がっていった。
  最近、アメリカだけでなく、ヨーロッパ諸国でも肉類の過剰摂取の問題が注目され始め、日本食を採り入れることで、その量を抑える動きが見られる。ドイツやフランスでは、米と野菜の雑炊や豆腐ステーキ、豆腐サラダといった豆腐料理などが、すでにポピュラーになっている。肉食過多に対する見直し、そして低脂肪、低カロリーの日本の伝統食の普及は、今後、世界的な流れになっていくのではないか。

  日本の伝統食とは、一般的に、米を主食とし、その副食としてその土地で産する豆、野菜、魚、海草などを取り合わせた食事とされている。たしかに、猪、鹿、ウサギ、野鳥のほか、鶏や豚、農耕用に使えなくなった牛馬なども食べられていた。しかし、それらの肉を食べることを「薬食い」と言っていたことからみると、肉食は、通常の食生活におけるタンパク質源としてではなく、病気やハレ(祭りや祝い事)の日など、何か特別なときに口にするものだったのではないかと思われる。
  日本では古来から肉食はタブーとされてきて、その背景には殺生を罪とする仏教観があったからだ。天武天皇が肉食禁止令を出して7世紀より19世紀(江戸末期)までの間、公的には肉食は禁じられていた。ただし、魚肉は例外で、魚の殺生は許されていた。海に囲まれた日本は昔から魚を日常的な糧としてきたため、おそらく魚肉までは禁止することをしなかったのだろう。
  こうしたことから、日本は米を基本に植物性食品を主体とする食事を何世代にもわたって守ってきたのであり、その食事が「日本の伝統食」であると理解できるのではないだろうか。

 肉食は人類を破滅に導く

  欧米諸国になぜ肉食文化が生まれたのか。それは、端的に言えば風土と思想に起因する。つまり、ヨーロッパは農業に依存できない気候風土であるために、必然的に肉食が中心の生活にならざるを得なかったのである。
  また、彼らの肉食には、キリスト教的世界、あるいはそれ以前のユダヤ教的世界の思想が背景にある。「すべての動物は人間が利用するために作られたものであり、神は家畜や鳥、魚、すべての地球上の生き物を人間が食べるように用意してくれた」という『旧約聖書』の教義である。旧約聖書は、すべての生き物は人間のためにあり、自然は人間が征服するべきものと説く。この自然観は、我々日本人(東洋人)にはとても理解しがたい。
  地球上には、多種多様な動植物が複雑にからみあった生態系を形成して生きている。植物は太陽エネルギーを受けて無機物を有機物に変え、動物のエサとなる。動物は、さらに上位の食性順位にある大型の動物に捕食される。このように自然界では、食を通して相互に依存し合うシステムが機能している。
  人間が食肉とする牛や豚、羊などの動物は、人間と同じ哺乳動物である。したがって、彼らは自然界にあって、食性順位が人間にきわめて近しい地位にあるといえる。その人間と生物学的に近親で、ある種、同族に近い動物を食するということは、カニバリズムに接近することであり、非常に危険な行為なのである。
  ところが、「肉食動物」となった人間はこのタブーを犯し、人類を破滅の方向へと向かわせていると言えるのだ。現在、世界において、一方で肉の飽食が問題に上がり、他方で飢えで苦しむ人たちが多数いる状況の中にあって、なおのこと肉食から離れるべきなのである。

 日本の食文化を守っていく

  人間は、その土地の歴史に育まれた固有の食物を柱に、それぞれの食文化を形成してきた。食物に調理の工夫をこらし、味を深め、個性豊かなものにして生活の糧としてきた。人間が食を選ぶのではなく、住みついた土地の自然がもたらす食物を巧みに活用してきたのであり、食生活は、土地や風土を抜きにして考えることはできないのである。
  たとえ、さまざまな食品の流通が盛んになったとしても、食の地域性は尊重されてしかるべきである。我々が日常、物を食べるのは、空腹を満たす生理的栄養の摂取のためだけではなく、精神的、文化的滋養の充足もまた求めているからである。
  しかし、現代の日本はそれから遠く離れてしまった。悲しいことに、米を食べると頭が悪くなるとか、肉を食べると元気になるとか言いくるめられ、欧米文化に劣等感を抱きながら「西洋化が食生活の近代化であり高級化である」という考え方に洗脳されてしまった。そして、この考え方が伝統的な食の軽視、ひいては国内の食糧生産の衰退や、農地の荒廃を招くことになってしまった。
  こうした発想は、敗戦直後の食糧難や栄養不足におちいっていた頃には、それなりに意味と合理性があった。だが、狂牛病を始め、さまざまな食肉汚染問題が深刻の度を増している現在、肉食中心の食生活から脱却する食の転換が必要なのではないか。
  それぞれの民族はその風土で育ち、これからも生活を続けていく。それが宿命でもある。ならば、生活の基礎となる食は、その民族、国の自然環境に一番ふさわしい生産性を軸にしてつくり出していくべきだろう。
  肉食生活に終止符を打ち、古来からの伝統食の原点に立ち返る。それが、真の食生活の向上と未来の活力を生むのであり、そのための知恵が、今、我々に求められているのではなかろうか。
     


  このように、健康問題を初めとしてさまざまな理由から、「私たち日本人は肉は食べないほうがよい」という結論になります。
  それでも、肉食の問題を自分の健康問題としてしか考えない人に、「肉は食べないほうがよい」などとお節介をするつもりはありません。それは全くの自己責任ですから、「どうぞお好きなだけ召し上がってください」と申し上げたいと思います。
  ただし、自分が食べるのはよいとしても、多くの人に向かって「肉は食べても大丈夫だ」と断言することは控えるべきでしょう。ここに紹介した文献だけを見ても、肉食にはいろんな意味で大きな問題があるのは間違いないことだからです。
  上記の文中に出てきた「マクガバン・レポート」について調べていただければ、肉食中心と見られてきたアメリカやヨーロッパの国々で、中流以上の階層の人たちの間では秘かに日本食がブームになっている理由もおわかりになると思います。

 「マクガバンレポート」とは

  1970年代、アメリカでは国民の間に心臓病やガンが多発し、その医療費で国家予算の大半が費消されるようになっていました。そのことに危機意識を持った政府が、上院議員のマクガバン氏を委員長とする「国民栄養問題アメリカ上院特別委員会」なるものをつくり、世界の最高権威とも言える医師や栄養研究家を集めて、7年間の調査・研究の末にまとめられたのが「マクガバンレポート」と呼ばれるものです。
  レポートは5000ページにも及ぶ膨大な内容からなっていますが、その結論は以下のように大変シンプルなものです。

  わが国(アメリカ)で心臓病やガンなどの慢性病にかかる人が増えつづけているのは、食生活に問題があったからだ。いまこそ肉食中心の間違った食事をやめて、未精製の穀物や野菜、海藻などを中心とした食生活に改めるよう勧告する。
 もっとも理想的な食事は、日本の伝統的な(元禄時代以前の)食生活である。つまり、精白されない穀物、季節の野菜、海藻、小魚などを中心とした食生活にすることである。


  ところが、このマクガバンレポートは、当時の畜産業界などから猛反発され、政治家への圧力がかけられて、やがて一般国民の話題に上らないように情報操作されていくのです。報告書をまとめた責任者のマクガバン氏は、当時は将来有望な政治家だったのですが、このレポートのおかげで政治家としての影響力を失っていったとも言われています。
  今日でも、BSE(狂牛病)問題でわが国はアメリカの牛肉の輸入を止めていますが、アメリカでは畜産業界からブッシュ大統領にもさまざまな圧力がかかっているのはご存じの通りです。アメリカには、肉をどんどん食べてもらわないと困る強大な政治勢力があるからです。そしてその裏には、世界の穀物市場を完全に支配している企業群があるのですが‥‥。

転載:http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/apocalypse-meat02.html

関連:http://blogs.yahoo.co.jp/shimataka373/18167804.html

私は半ば自虐的に「飽食日本」という表現をよく使います。それは、私の家庭でも残飯類はそこそこ生まれていますし、それを生ゴミとして廃棄している実態があるからです。世界中には飢餓線上にいる人たちが何億人もいると言われているのに、世界第2位の経済大国に生まれた私たちは、幸運なことに食べ物に不自由することはありません。「ホームレスの人でも肥満に悩んでいる」と揶揄されるほど食べ物に恵まれているのです。
  テレビでは、趣向を凝らしたいろいろなグルメ番組が人気を博しています。「私たち日本人は、こんなにも食べ物をもて遊ぶ国民になってしまったのか」と慨嘆させられると同時に、「いずれ食糧危機がわが国を直撃し、人々は改めて食べ物のありがたさを認識させられることになるのだろう」と予感しています。
  日月神示の中に、つぎのような一節があります。

  日に日に厳しくなりて来ると申してありた事始まっているのであるぞ。まだまだ激しくなって、どうしたらよいか判らなくなり、あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、頼る処も着るものも住む家も食う物もなくなる世が迫って来るのだぞ。

  一日一握りの米に泣く時あるぞ。着る物にも泣くことあるぞ。いくら買いだめしても神の許さんもの一つも身には付かんぞ。着ても着ても、食うても食うても何もならん餓鬼の世ざ。

  私たちがアメリカの戦略によって、穀物中心の食生活から肉や乳製品を軸とした洋食に切り換えた結果、農業は崩壊し、食料の自給率は先進国で最低の40パーセント台という悲惨な状態になっています。しかも、国内で生産されているウシや豚や鶏などの餌となっている飼料は、その99パーセントを外国からの輸入に依存しています。
  つまり、わが国の胃袋は穀物メジャーの手に握られているといってもよいのです。アメリカにおける大豆の不作が引き金となって、1973年には豆腐の値段が3倍に跳ね上がり、それがきっかけとなって、スーパーの店内からトイレットペーパーなどの生活必需品が消えるという買い占め騒ぎが起こりました。
  その後、冷夏による米の不作では、スーパーには米を求める人たちの長い行列ができ、また農家では倉庫の米が何者かによって盗まれるという事件が相次ぎました。そのころよりも日本の治安は格段に悪くなり、また連日マスコミを賑わせている凶悪な犯罪の発生件数を見ましても、この国の人の心はますます慎みを失っているように見えます。
  今や、パニックを引き起こす条件は整い、石油危機や異常気象などが引き金となって、いつ食糧危機に見舞われてもおかしくない段階なのです。


『肉食が地球を滅ぼす』 中村三郎・著 ふたばらいふ新書

 
しのびよる気象パニック

  小麦とトウモロコシは、気温が2度上がると収穫量は3分の1に落ちるという。
  もし、アメリカの穀倉地帯が過去にない大規模な異常気象(熱波・旱魃)に襲われ、トウモロコシがほとんど全滅状態になったとしよう。三大穀物は、シカゴにある取引所の相場が国際取引価格の目安になっている。その穀物相場が、まず天井知らずの大暴騰を続ける。アメリカ政府は穀物の高値を武器に、世界の食糧支配を強化できるとニンマリすることだろう。一方、発展途上国では食糧の供給が途絶え、飢えた人たちが次々と死んでいく。
  日本はどうなるのか。日本は穀物輸入の大部分をアメリカに頼っており、トウモロコシの99パーセントはアメリカからの輸入である。途上国で餓死者がどんどん増えていくのをよそに、日本の商社が金にあかせて、アメリカが備蓄しているトウモロコシの買い漁りに奔走する。しかし、日本だけがアメリカのトウモロコシを独占することは許されない。世界中から非難を浴びることは目に見えているからだ。
  アメリカは、穀物の全面輸出禁止、あるいは輸出規制をするかもしれない。1973年にアメリカは、大豆が不作だったことから大豆の輸出を禁じ、日本でパニックが起きた。豆腐1丁50円だったのが150円にはねあがり、そのパニックが石油へと波及し、さらにトイレットペーパー騒ぎにまで発展したことはまだ記憶に新しい。いずれにせよ、日本は今までに経験したことのない大パニックにおちいることは間違いない。
  トウモロコシが供給されないということは、輸入トウモロコシを飼料にしている日本の畜産業が崩壊することである。それは同時に食肉の輸入もストップすることでもある、という覚悟をしておかなれければならない。異常気象が日常化した状況からいって、こうした危機に明日にでも直面する可能性は十分に考えられる。

 ゼロに等しい日本の穀物自給率

  日本の穀物自給率は著しく低い。1999年現在、24パーセントである。1960年の82パーセントから、信じがたいスピードで落ち込んできている。
  日本の自給率24パーセントというのは、世界178カ国中130番目という位置である。穀物自給率が日本より低い国をあげると、コスタリカ(21パーセント)、フィジー(10パーセント)、パプアニューギニア(2パーセント)などがあるが、日本はこうした途上国並みの水準にしかない。いわゆる先進国の中で最低の位置にあると言っていいだろう。

  家畜のエサである飼料穀物となると、自給率はゼロに等しい。国内消費のほぼ全量がアメリカから輸入される。その飼料用穀物の増大もまた、米食から小麦食に転換されたことによってもたらされた。60年の飼料用穀物の国内消費量は590万トンだったのが、98年には1600万トンと約3倍になっている。
  パンや麺類のおかずには、米食にそえていた魚や味噌汁が合わず、必然的に肉や乳製品を食べるようになる。そして、その肉類を生産するために、飼料用穀物の需要が増え、大量に輸入されるようになったわけである。
  小麦食が日常化した65年からの30年間に、肉の消費量は12倍にのぼっている。したがって、小麦消費量の増大は肉の消費量の増大を促し、それがさらに飼料用穀物の需要を増やすという仕組みを生み出しているのである。

  食糧自給率の向上はその国の義務であり、世界の常識である。そこからはずれてしまっている国は、先進国では日本しかない。アメリカの策略にうまくはめられた日本は、そのままズルズルと食糧輸入国に甘んじてきた。そして食糧の自給などまったくかえりみず、さらには、古来から伝わる日本独自の食文化と伝統をも捨て去ってきたのである。
     


 食糧危機到来の予感がします

  この文章からもわかりますように、もし穀物の輸入が止まったら、日本では牛も豚も鳥も飼育することができなくなるということです。米を軸とした日本古来の食生活を、肉や小麦に依存した食生活に切り換えたことのツケは大変大きなものがあるのです。
  お隣の中国が日本と同じように、牛肉をふだんに食べる食生活を目指していることで、家畜用の穀物市場はますます売り手側が有利になっています。最近では石油の高騰によるエネルギー危機の匂いもし始めましたが、異常気象の中でアメリカやロシアの穀倉地帯が大きな被害を受けることになれば、たちまち穀物市場は大波乱に見舞われることでしょう。
  私が「ここ数年以内に必ず食糧危機が訪れる」と考える根拠は、そういうところにもあるのです。もちろん、食べ物に感謝することなく、大変粗末に扱うようになっている今日の日本人は、間違いなくそのしっぺ返しとも言える事態を迎え、乏しい食べ物を奪い合ったり、涙ながらに口に運ぶ事態を経験するのではないかと気になっています。日月神示にそのような記述があります。
  最近のテレビを見ていますと、食べ物を使ったゲームまがいの番組が増えているのを感じます。私はこれこそ日本人が食べ物に対する感謝の念を失った姿だと思うのですが‥‥。

転載:『
2012年の黙示録』「フツーの人が書いた黙示録」
   http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/apocalypse-meat03.html

あなたはペットを殺して食べられますか?

  さて、食べられる側の動物の立場で肉料理と向かい合ってみると、どんな問題が感じられるでしょうか。中村三郎氏は「人間と同じ哺乳動物である牛や豚などを食するということは、カニバリズムに接近することであり、非常に危険な行為である」と述べています。
  これは健康上の理由からですが、私はこの健康上の理由とは別に、人間が哺乳動物を食べることの問題点は大きいと考えています。
それは、哺乳動物は最も人間に近い息づかいをした生き物ということで、私たちの感情を移入しやすいからです。
  たとえば、あなたがペットとして犬を飼っていると考えてみてください。毎日、餌を与え、頭をなで、毛並みをそろえてやっている犬を、あなたは食べることができますか。食糧危機で、あなた自身が何も食べるものがなくなったとき、そのペットを殺して食べるでしょうか。ほとんどの人は食べないと思いますし、まして殺してまで食べるという人はいないでしょう。
  しかし、それが庭に植えてある野菜であれば、いくら手塩にかけて育てたものであっても、ためらうことなく口に運ぶのではないでしょうか。あるいは、池で飼っている鯉であれば、殺して食べるという人もいるでしょう。同じ生き物なのに、その違いはどこにあるのでしょうか。――それは「命」を感じる度合いの違いだと思うのです。

 昔は家畜もペット同然の身近な存在だった

  昔は、農家で飼われている家畜は、家族同様の扱いを受けていました。何年もかかって育てた牛を競りに出す日は、飼い主はさすがに胸が熱くなるという話を聞いたことがあります。
  牛自身も人の言葉や雰囲気で別れを察知するらしく、その日は大変悲しい表情をしたそうです。それは、自分が殺されることを予感してというのでなく、お世話になった(いつも餌を与えてくれた)人間との別れを悲しんでいるのです。大事に育てれば、動物にも人間の気持ちが理解できるのです。その証拠に、実際に涙を流す牛がいると聞いたことがあります。
 牛などの動物を「畜生」と呼んで軽蔑する人もいますが、飼い主から見れば現在のペット以上に愛情を注いで育てた生き物なのです。そういう動物であれば、食べ物としていただいても、人の健康に害をするようなことはないかもしれません。
  しかし、現在の畜産業の中で、最初から食料として育てられている牛たちの置かれている状況は目も当てられないほど悲惨なものなのです。需要(食べる人)が多いので、大量生産しなければならず、またできるだけ飼育コストを切り下げ、利益を最大にすることが目的となっているからです。
 急速に育てるため、狭い畜舎にぎゅうぎゅう詰めにして運動はさせず、無理矢理食べさせます。しかも、本来なら牧場の草を食んで育つ牛に、餌として食べさせているのは「飼料」と呼ばれる穀物類なのです。その中に牛の骨や内臓を粉末にしたもの(肉こっぷん)までも混ぜていたのです。このことから「狂牛病(BSE)」問題が発生したのは、人間に動物虐待に対する反省を促す警鐘と見ることもできます。
  このように、牛が食べたいと思う物ではなく、牛を早く太らせるための食べ物を与えているのです。ここにも、生き物の命を無視した人間のエゴが見て取れます。肉を食べる消費者は、そんなことには全く無関心で、罪の意識もないままそのエゴに加担し、その見返りとして肉体の病気をもらっているのではないでしょうか。

 子どものころに目撃した山羊の惨殺現場

  子どものころ、家の近くで山羊を殺している光景を目にしたことがあります。殺している人物は、昼間からお酒を飲んでふらふらしている男性でした。どこからか山羊を手に入れてきて、その山羊を木の幹に縛りつけ、斧(おの)の背の部分で殴っているのです。山羊は既に倒れていましたが、まだ息があるらしく、悲しそうな鳴き声を上げていました。
 通りがかった人たちは眉をひそめ、耳を押さえて、足早にその場を離れていきました。私もとても直視できず、すぐにその場を離れましたが、山羊の声はずっと追いかけてきました。
 たまたま屠殺現場を目撃しましたので、私は食卓に上がる動物の肉が、もとはそのような生き物であることを実感することができます。近代的な屠殺機械を使うにせよ、誰かがスイッチを押すなり、刃物を動かすなりして、食用動物の息の根を止めているのだと‥‥。
 しかし、今日ではそんな経験を持つ人はいないでしょうから、肉を見て生き物の命を思い起こす人は少ないのでないかと思います。
 スーパーなどで、カットされ、ミンチなどに加工され、パックされて売られているお肉に、生き物の息づかいを感じることはないでしょう。
 それでも「ちゃんと牛さんに感謝して食べるからいいんだ」と言えるでしょうか。
 自動販売機をイメージしてみてください。「お肉自動販売機」の商品メニュー欄に「牛ステーキ用」「すき焼き用」「しゃぶしゃぶ用」「カレー用」などと書かれていて、そこに所定の金額を投入すれば自動的に商品が出てくるという感じです。
 多くの人々が関心があるのは、肉のどの部分が美味しいか、どの部分は脂が少ないか、どこで育てられた牛が美味しいか、といったことです。
 お金を入れてから肉が出てくるまでのプロセスは、全くのブラックボックスとなっているからです。それでも、食べるときに「牛さんごめんなさい。美味しかったよ。感謝してるからね。ありがとう」と言えば「感謝をしたことになる」と思う人がいるなら、それはやはり普通の感覚とは言えないような気がします。いや、今普通の人がそのような感覚になってしまっていることが問題なのです。
 ブラックボックスの中で、牛や豚たちは大変悲惨な育てられ方をし、残虐な殺され方をして、近代的な処理工場の流れ作業の中でモノとして解体され、「商品」と「ゴミ」とに分けられて行っている実態を知ろうともしないからです。
 肉を常食としている人たちに、私が子どものころ目撃した「山羊の惨殺現場」をお見せしたい衝動にかられます。

 屠殺のビデオを見て肉が食べられなくなった‥‥

  当サイトのBBSで肉食をテーマとした議論が沸騰しているとき、一人の女性から私宛に1通のメールが届きました。大変謙虚なお便りの内容に、私は強く心を打たれたのです。肉を食べる人も食べない人も、ぜひこの手紙が伝えているメッセージを心で受け止めていただきたいと思います。


  私は日は浅いですが、今年の2月より、お肉は全く頂かなくなりました。
  それまでは、週に一回は焼肉やさんへ行っていたほど大好きでした。頂けなくなった理由はネットで屠殺のビデオを何種類も見たからです。動物たちの過酷な一生を知ろうともせず神様に感謝して頂くのだから良いだろうと思っていました。美味しく頂く事が成仏だと勝手に思っていました。お肉を食べている時は私自身大変幸福でしたから・・・。

  屠殺のビデオを見た時、想像をはるかに越える過酷な動物の短い一生に愕然としました。牛は生きたまま、逆さにされ喉を切られ、血を抜かれそれでも意識はあり、もがき苦しむのです。畜産動物に限らず、実験、毛皮、販売などにより動物たちを無益に殺している実情を多くの方に知って頂ければと願っています。
  だからといって私自身、運動するわけでもなしHPをたちあげるわけでもない、一番の卑怯者です。お気楽にも自分の都合の良い解釈をし何十年も現実を知ろうとしなかった愚かな自分を呪いました。全ての生き物を支配している人間に生まれた私に生きる目的を失いました。
  二ヶ月間は、毎夜泣いて過ごしました。 でもある日、不思議と安堵感がありました。自と他を分けていた壁がとれたのだと思います。動物達や他の犠牲の上で成り立っている私達人間生活に深い深い感謝の念が湧き上がりました。 現実をあるがままに受け入れる事。そして私はそれに良い悪いの判断を下すのはやめようと思ったのです。

  様々な観点(動物愛護、健康、波動など)から肉食を断つ方がおり、気付きの時期も人それぞれ違うのでしょうが、私の選択は自分の中で大変良かったと思います。なぜなら、小さな自己の幸福ばかりを追求していると全体の幸福を見失うからです。
  賛否両論はあるでしょうが、生きとし生けるものが仲良く共存できる地球になる事を願ってやみません。
     


  この方のように、牛がどのような殺され方をしているのかを知ることによって、意識に強烈なインパクトを与えられることがあるのです。多くの人は、まだそのような「事実」を知らないために、子どもたちにも「命」の大切さを教えることができないのではないでしょうか。そのことが、生き物の命を大切にしない今日の社会風潮を作りだしていると言えるかも知れません。
  『脱牛肉文明への挑戦』から、牛が殺され、解体されて、店に並べられるまでの状態を描写した内容をご紹介します。要するに、ブラックボックスになっている「お肉自動販売機」の中の状態です。「命」が
機械的に処理されていくこの過程は、肉を食べる人も食べない人も、ぜひ知っておいていただきたいと思います。


『脱牛肉文明への挑戦』 ジェレミー・リフキン・著 ダイヤモンド社

 
現代の屠(ほう)りの儀式

 
ウシは一列縦隊で解体場に入っていく。入るそばから彼らは空気銃で撃たれる。膝を折って崩れ落ちると、作業員がすばやく後ろ足のひづめにチェーンを留め付ける。プラットホームから機械でウシの体が引き上げられ、逆さに吊るされる。作業員たちが長いナイフでウシの喉を裂き、1~2秒間喉頭に深く刃を差し込み、それからすばやくナイフを引き抜く。この過程で頸静脈と頸動脈が切断される。
  血がどっと噴き出して床にあふれ、作業員と設備に血しぶきがかかる。あるジャーナリストはこの光景を次のように記している。

 
食肉解体場の床は血の海だった。‥‥くるぶしまで浸かるこのプールで生温かい血が泡立ち、そして凝固していく。名状しがたい臭いで息が詰まる。男たちは全身血のりにまみれている。毎晩、このねばねばのおぞましい汚れがすっかり拭き取られる。

  死んだウシは解体ラインに運ばれる。最初の作業場で皮を剥がれる。腹部の中央が切り開かれ、皮剥ぎ機が全身の皮を一度にむき取る。頭部を切り落とされ、舌を切り取られ、そして内臓が取り出される。これが完了すると胴体(枝肉)が次の作業場に移され、電動のこぎりで背骨に沿って縦に真っ二つに切断され、尾が切り取られる。
  次の日、作業員は電動のこぎりで枝肉をステーキ用の各部位、チャック(肩)、リブ(背)、ブリケット(腹)などに切り分け、次々にコンベア・ベルトに投げ込む。各コンベア・ベルトにはそれぞれ30人~40人の従業員が配置されており、彼らは肉をカットし、包装する。きれいに形を整えられ、真空パックされた牛肉の切り身が全国のスーパーマーケットに搬送され、明るい証明に照らされた食肉売り場に陳列される。

 
感情なき解体作業

 
解体工程において人間が機械に部分的に置き換えられたことは、生身の人間に新たな現実認識をもたらした。それは、「殺す」という行為に感情がともなわなくなり、無関心になるという変化である。人間は、ベルト・コンベアそのものによって設定されるペースと要求に従うことを強いられる単なる共犯者となった。
  ベルト・コンベア式解体工程は、近代産業生産の基本的コンセプト――分業、24時間生産体制、大量生産、そして何よりも効率――を取り入れた。
  ウシは被造物の大いなる階梯から一段格下げされた。有史以来数千年にわたり西洋文化において崇拝されていたこの高貴な被造物は、チェーンで吊り上げられてレールに留め付けられ、作業場をせわしく移動しながら、切り裂かれ、切り刻まれ、分類され、形を整えられ、そして流れ作業の末端にたどり着いたときには生命の痕跡を残さない肉塊になっているのである。
     



 カルマがすごいスピードで表面化しつつある

  中国の人は犬や猫はもちろん、蛇でも食べると言われています。日本でも、戦時中はそういう生き物を食べた人がいたことでしょう。ふだんは「ペットは食べられない」と言っている人も、いざとなったらどうなるかわかりません。それは、極限的状況でしか表面化しない「本性」つまり潜在意識の中に蓄積された波動の傾向が表面に現れるからです。
  『2012年の黙示録』にも書きましたが、終末には私たちの潜在意識に畳み込まれているカルマがすべて表面化するのです。すでに、異次元との壁が薄くなっている関係で、そのカルマがどんどん表面化しつつあるのを感じます。それは、人それぞれのカルマもあれば、日本という国のカルマ、あるいは人類全体で作っているカルマもあります。さしずめ頻発する地震や洪水などの天変地異は、人類のカルマが形をとっている姿ということがいえるでしょう。
  そのように、人類や民族、国家単位で表れてくるカルマとは別に、一人ひとりが持つカルマもすごいスピードで表面化しつつあります。それは、今日では新聞やテレビで報道されない日がないほど頻繁に発生している異常な犯罪の数々を見ればわかります。動機がはっきりしない凶悪な殺人事件、簡単な理由で親を殺したり、子を殺したり、あるいは経済的な行きづまりを苦にしての自殺の増加といった形で、大きな社会問題となっています。
  肉食のもつ粗い波動の影響で、人はますますイライラを募らせ、攻撃的になり、それが犯罪に結びついているのは間違いないと思っています。肉食と波動の関係は、「魂の進化の視点」のところで中矢伸一さんの『日月神示・神一厘のシナリオ』の中から参考になる内容を紹介していますので、ぜひご覧いただきたいと思います。

 肉食を続けると低級霊の干渉を受けやすくなる

  いくら食糧危機になって、何も食べるものがなくなっても、まさか自分の子どもや配偶者を殺して食べる人はいないはずです。たとえ既に亡くなっていても、家族の死骸を焼いたりして食べるでしょうか。実は、日月神示には次のような記述があるのです。

  日本には、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、みな人民の食いて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ。日本人には肉類禁物ぢゃぞ。今に食い物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ。今度は共食いとなるから、共食いならんから、今から心鍛えて食い物大切にせよ。(日月神示『梅の巻』第十四帖)

  この神示を素直に読めば、多分こういうことだろうと思います。

  今に(終末の)食糧危機が訪れると、今度は人が人を食べる(共食いする)ようになるぞ。しかし、共食いしてはならんから、今からそういう食べ物(人肉)の誘惑に負けないように心を整えて、ふだんの食べ物を大切にする癖をつけておけ。

  肉の持つ粗い波動に慣らされた胃袋は、食糧危機の中では真っ先に「肉を食べたい衝動」に駆られるのです。旧約聖書の中にも、モーセに率いられた民が、来る日も来る日も空から降ってくるマナ以外のものを食べることを禁じられて、「ああ、肉が食べたい」と叫んだという記述があります。
  その掟を破った者は、多分宇宙人と思われるゴッド(GOD)の手で即座に殺されるのです。
  では、GODはなぜ肉を食べた人間を殺したのでしょうか。それは肉を食べると波動が粗くなり、異次元の低級霊の干渉を受けやすくなるからだと思います。この話はのちほどまた採り上げてみたいと思います

 いくら空腹でも共食いをしてはならないから

  ここで言いたいのは、いざ食べ物がなくなったとき、私たちは自分が飼っている(育てている)生き物のうち、「一番食べ物にしたくないもの」が、すなわち「食べてはいけないもの」だということです。なぜ食べ物にできないかと言いますと、それは動物が私たち人間とよく似た反応をする生き物だからです。
  つまり、怖がったり、悲しい声を上げたり、噛みついたりといった、自分の命を守るための抵抗をする動物の中に、私たちは自分と同じ「命」を見てしまうのです。神様が与えて下さった同じ「命」を意識して、自分がいくら空腹であってもその生き物を殺して食べたりできないのです。そういう形で、私たちの魂が「他者への愛情を深める」という意味で進化を果たすように仕組まれているのだと思います。
  終末の次元上昇は肉体の波動の上昇と考えている人がいるかも知れませんが、各神示には「身魂」すなわち「肉体」と「魂(精神的なもの)」とハッキリ述べられています。ですから、単に肉を食べなければ波動が乱れないということではなく、いくら空腹でも共食いをしてはならないという心の状態を作れるかどうかという点で試されるのだと思います。
  「いざとなれば人間の死体でも食べる」というような獣的心情になる人間には、高級神霊は憑かることはできないため、終末には低級霊やサタンの手先の餌食となる恐れがあるということです。肉食を続けていると、その共食いの誘惑に負けやすくなり、同時に高級神霊の手助けができない波動になってしまうという点が問題なのです。


『肉食が地球を滅ぼす』 中村三郎・著 ふたばらいふ新書

 経済動物たちの悲しき運命

  今日の日本でも、肉牛生産はアメリカのフィードロット方式を取り入れ、アメリカほど大がかりでないにしろ濃厚飼料と薬剤で育てる飼い方が一般的である。牛は、もはや人間と共生する「家畜」ではなく、商業資本のもとで工場生産される「経済動物」なのだ。
  では、鶏や豚はどうなのか。彼らとて牛と同じである。機械化された工場に閉じこめられ、経済動物として大量生産されている。

 ニワトリの体は2年でボロボロに

  まずブロイラーである。
  ブロイラーは卵からヒナにかえると、すぐに飼育用鶏舎に入れられる。狭いスペースに大量に詰め込まれ、1坪(畳2枚分)あたり100羽以上にもなる。そのとき、つつき合ったり、エサを散らさないようにくちばしを短く切り落とされる。
  鶏舎は日光の射す窓がなく、つねに薄暗くしてある。鶏は「コケコッコー」と鳴いて夜明けを告げる習性を持つ。これを大勢でいっせいにやられては、うるさくてかなわないというわけだ。エサは当然、高カロリー、高タンパクの濃厚飼料である。それに栄養剤、消化剤、抗菌剤などが添加され、自動的に給餌されるようになっている。
  こうして、鶏舎の中で押し合いへし合いして育っていく。8週間前後で、食肉に最適な体重1.5キロほどの若鶏に成長する。そのころには鶏舎は、体が大きくなった鶏たちで満杯の状態になる。あとは食肉処理場のトラックに積み込まれるのを待つだけである。

  卵を産む「採卵鶏」も似たようなものだ。狭いケージの中に立ちっぱなしで、薬剤入りの飼料をたっぷりと与えられ、卵を産み続けさせられる。鶏舎はブロイラー用とは逆に、夜でも照明が当てられ明るい。人工的に昼の時間を長くすることで季節感を鈍らせ、羽の生え代わりを抑える。すると体力の消耗が少なくてすみ、栄養価の高い卵ができるのだという。
  鶏たちは、1日に1、2個の卵を量産する。そして、1年半から2年で、その役目は終わる。毎日の過酷な“労働”で体がボロボロになっていき、2年もたつと卵を産めなくなってしまうからだ。
  用済みになった鶏たちは食肉加工場へ送られ、ソーセージやスープの材料にされる。鶏の寿命はだいたい15年から20年だが、経済動物の宿命とはいえ、その10分の1も生きられない苛酷で哀れな一生なのである。

 豚はデリケートなのでノイローゼになる

  豚の場合は、フィードロットの牛と飼われ方はほとんど同じだ。土のないコンクリート床の囲いの中に押し込められ、やはり濃厚飼料と薬漬けでいやおうなしに太らされる。
  豚は見かけによらずデリケートな動物である。それだけ人間に近いというわけだが、だからストレスがたまりやすく、ノイローゼになることが多い。ストレスが高じれば、当然の帰結で病気にかかりやすくなる。しかし、生産者は環境の改善などまったく考えない。大量の薬品投与でしのごうとする。
  豚に対する薬品の使用量の多さは牛や鶏に比べて群を抜いている。薬を使えば使うほど豚の抵抗力が弱くなって、病気にかかる率が高くなる。にもかかわらず薬の投与を繰り返す。そこには食品業界と薬品業界の持ちつ持たれつという“腐れ縁”がからんでいる。そのため、養豚場では、病気は絶えることがない。
  豚たちは、体重が100キロ前後に達する6カ月を過ぎると監禁生活から解放される。だが、そのときは肉体的にも精神的にももうズタズタになっているのだ。その後の行く末は言うまでもない。

 かつてはのびのびと育てられていた家畜たち

  かつて農家や農場で育てられていた家畜は、繁殖も成長も自然のありように任せられていた。彼らの健康と命は、太陽の光と自由な活動によって得られたのであって、人工飼料や薬剤で保たれるのではなかった。
  牛は広い野原に放たれて草をはみ、豚はキッチンから出る余り物を食べたり、土を掘り返して食べ物をあさった。また、鶏は庭先を歩き回って草の芽や虫をついばんだ。彼らは本能のまま自由に行動することが許されていた。そして、その代わりに食肉となり、卵を産んで人間に生活の糧として提供した。
  家畜は、農家にとって確かに金銭をもたらしてくれる価値ある存在だったが、だからといって、現金を生む動物としてしか扱われなかったわけではない。彼らは自然がさずけてくれた恵みであり、その一頭、一羽に対して畏敬の念をもって接すべきだという自然観があり、単に利潤を生む対象ではなかったからだ。その意味でまさに「家畜」だったのであり、農家の家族の一員だったのである。

  動物たちが自然環境の中で自由に暮らしていられるということは、人間にとっても幸せだった。彼らは野原をあちこち歩き回ることによって、土の中のさまざまな細菌にふれる。そうした中でおのずと病原菌に対する免疫体質ができあがる。そのため病気らしい病気もせず、健康で丈夫だったからだ。
  また動物たちは動き回りながら、食欲のそそられるままに、自然が作りあげているいろいろなものを食べた。この運動と多様な栄養素のおかげで、今日の大量生産物とは中身のまったく違う、健全で上質な食べ物を生み出してくれていたのである。それはたとえば、放し飼いの鶏の肉と、養鶏場で育つブロイラーの肉を食べ比べてみればいい。放し飼いの鶏の方が、風味も栄養価もはるかに優れていることがわかるだろう。

  ところが今日では、動物たちを田園から切り離し、工場に閉じ込めて大量生産する。太陽の当たらない、ほこりっぽい倉庫のような場所で、朝から晩まで薬漬けで食っちゃ寝の生活を押しつけられ、ぶくぶくに太らされて食肉工場送りにされるのだ。ただひとえに肉を生産する人工マシーンに改造されてしまった。
  生産者が目指しているのは、動物とともに生きる喜びではなく、要するに利益である。そのために、動物たちは効率よく金が儲かる存在でなければならないのである。
     

「地球の環境問題なんて、自分には関係ない」と思っておられる方も、以下に紹介する程度の内容は知識として持っておいていただきたいと思います。
  地球環境問題を考えるときに、よく使われる有名な言葉があります。
 
Think globally,act locally.
 
これは「地球レベルで問題を把握して、目の前の小さなことから実行に移そう」ということを述べています。牛の飼育が地球環境を恐ろしいほどに破壊し続けているという事実は、まだほとんどの人が気づいていないかもしれません。まずその事実を知ることが大事だと思います。
  しかし、牛肉生産の増大によって地球レベルで進行しつつある環境破壊を、一人の人間の努力で止めることはとてもできないことです。そのとき「自分一人がやっても無駄だ」と思うか、それとも「自分にできることからやろう」と思うかです。あなたはどちらを選びますか?
  「
肉を食べるのを減らす」ということも、立派な「Act locally」になるのです。
  なお、ウシが「ひづめのあるイナゴ」として地球を食い荒らしている実態については、『
脱牛肉文明への挑戦』(ジェレミー・リフキン・著/ダイヤモンド社)に大変詳しくまとめられていますが、あまりにも膨大な内容なので、ここでは雑誌『ダカーポ』に載った記事を紹介します。関心のある方はぜひ書籍を購入して読んでいただきたいと思います。


本の紹介 『脱牛肉文明への挑戦』 (ダカーポ/1993年)

  地球上には、現在13億頭ものウシが飼育されているそうである。一家4人にウシ1頭の計算になる。1頭のウシは500キロの体重になるまで1200キロもの穀物を食べる。なんと世界中の穀物生産の3分の1は、飢えに苦しむ人達でなくウシの胃袋に納まっているのだ。しかも世界的な水不足のなか、穀物栽培には大量の水が必要で、アメリカ国内の水消費量の半分は飼料用穀物のために使われている。さらにウシの排泄物にはかなりの有機物質が含まれており、これらが地球に染み込んで地下水や河川を汚染する。なにしろ13億頭分だからその量もすごいはずだ。

  また南米では、牧草地にするためアマゾン流域の熱帯性雨林が焼き払われる。100グラムのハンバーガーひとつのために、5平方メートルの森林が破壊され、植物、昆虫、鳥、哺乳類など重さにして合わせて75キロもの生物が犠牲になっているという。
 この他、ウシが排泄するメタンガスによる地球の温暖化、ウシが踏み固める大地の砂漠化など、ウシ関連の環境問題は限りない。著者が「ひずめのあるイナゴ」と呼ぶウシの大群こそ環境破壊の元凶とも言えるのだ。

  今や、飼育、飼料用穀物生産、輸送、食肉工場、流通といったウシから牛肉になるまでの全産業を支配する多国籍企業は、世界を「牛肉を食べる豊かな国」と「ウシの飼料となる穀物さえ食べられない国」に二分し、牛肉文明の発展と共に地球規模の畜牛複合社会を築き上げた。
     

評者 TBSニュースキャスター 吉川美代子


  次にご紹介する中村三郎氏の『肉食が地球を滅ぼす』も、お勧めの本です。


『肉食が地球を滅ぼす』 中村三郎・著 ふたばらいふ新書

 
消えていく熱帯林

  今、世界の森林は激しいスピードで減少を続けており、深刻な状態にある。この10年間で実に1億5000万ヘクタールの熱帯林がなくなり、現在もなお毎年1600万ヘクタールが消失している。森林伐採と焼畑農業が主たる原因だが、牛や羊など家畜の放牧地への転換もまた大きな要因となっている。
  アメリカなど先進国における畜産はフィードロット方式が主流だが、世界全体でみると、放牧による飼育の方が多い。そして、そのほとんどがブラジル、ベネズエラ、などアマゾン川流域の中南米諸国に集中している。食肉を大量消費する先進国の企業が、これらの国で食肉増産のためにアマゾンの熱帯林を切り開いて家畜の放牧地に変えているからだ。今日、アマゾンの土地に約600万頭の牛が放牧されているという。世界の熱帯林の半分をアマゾン地帯が占めている。そのうちの20パーセント(日本の総面積の3倍にあたる1100万ヘクタール)が、放牧地の開発ですでに失われている。

  この放牧地の開発は、中南米諸国によるアマゾンの商業利用計画が始まった1970年頃から急速に広がった。各国の政府がアマゾン地域への投資を奨励したため、先進国のアグリビジネスが牛の放牧場の建設を目的に、アマゾンの奥地にまで殺到した。土地の農民が所有する森林をわずかな金額で買収し、食肉生産のために熱帯林を切り倒していった。
  放牧地は、牛の群れに根こそぎ牧草を食べつくされ、養分や水分の枯渇、表土の流失を招いて、たちまちのうちに、種をまいても芽が出ないほど荒れ果ててしまう。そして、放牧に使えなくなると、その土地は打ち捨てられ、牧場主は次の放牧地を求めて、さらに熱帯林を切り開いていく。先進国の牛肉消費を支えるアグリビジネスの企てのもとに、こうした乱開発のパターンが繰り返され、アマゾンの熱帯林はどんどん減少していったのである。

  中南米の中でも熱帯林の3分の1を占める
ブラジルでは、1970年から10年足らずの短期間に40パーセントもの森林が消えた。アメリカのワールドウォッチ研究所の報告によると、アマゾンで生産された牛肉からハンバーガー1個を作るのに、5平方メートルの森林が伐採されて放牧地に転換された計算になるという。
  アマゾンの森林には、さまざまな動植物が生存している。地球上に存在するとされる約100万種類の動植物、微生物など全生物種の5分の1が、ここに集まっているとみられる。もし、このまま森林破壊が進めば、今後25年間で動植物の約半数が絶滅の危機に瀕する恐れがあると言われている。

  また、熱帯林は、雨水を土から吸い上げ、葉から蒸発させて大気にもどすという雨水の循環作用を行なっている。熱帯林が少なくなれば、その地域の降雨量が減るわけで、旱魃や砂漠化をもたらす。南米の先住民の間では、「
熱帯林が空を支えている。木を切り倒せば必ず天災が降りかかる」と、言い伝えられている。
  熱帯林は、人間に多大な恵みをさずけてくれる資源の宝庫なのであり、我々の日々の生活がいかに熱帯林に依存しているかを深く心にとめなければならない。今、残されている熱帯林が消滅してしまうとき、地球の生態系は完全に崩壊し、すべての動植物は地上から永遠に消えることになるだろう。もちろん、そのときは人類も同じ運命である。

 
砂漠化する大地

  家畜の放牧による影響は森林だけにとどまらず、土地の砂漠化も招いている。
  現在、世界の放牧地面積は耕地面積の2倍にのぼり、そこでは13億2000万頭の牛と17億2000万頭の羊やヤギが飼われている。人口の増加と歩調を合わせるように家畜数も年々増加しており、食肉、牛乳、皮革、その他の畜産物に対する需要の高まりとともに世界各国で過放牧を引き起こしている。
  過放牧とは、放牧地で牧草の生産量が家畜による消費量に追いつけない状態をいう。過放牧になると、つねにエサ不足の牛たちは食欲を満たすために、あちこちの草地の牧草を食い荒らし、草の根まではぎ取ってしまう。すると地層がむき出しになって、土壌基盤が脆弱化し、風や雨に浸食されやすくなる。
 
過去50年の間に、世界の放牧地の60パーセントが過放牧のために荒廃した。

 
穀物メジャーの暗躍

  世界の穀物をほぼ独占的に扱っている存在として、「穀物メジャー」と呼ばれる巨大アグリビジネス(Agribusiness=農業関連企業)がある。アメリカに本拠地を置く10社程度の多国籍食糧商社で、カーギル、コンチネンタル、ブンゲ、ドレフェスなどが有名である。
 
穀物メジャーは、世界各国に集荷網、販売網を張りめぐらせて、農地から世界市場までを統合した流通組織を支配している。大豆、小麦、トウモロコシなど世界の農作物貿易量の70パーセントを扱い、また、アメリカの全穀物輸出量の80パーセント以上を扱っているという。世界の穀物のほとんどは、この一握りの企業によって牛耳られているのであり、その支配力は一国の食糧政策をも左右するほど強大なのである。
  それほど大きな影響力を持ちながら、しかし最近まで、その実態はよく知られていなかった。というのも、
穀物メジャーはすべて同族会社であり、株式を公開していないため、年間取引額や利益、投資計画など経営内容がいっさい外部には明らかにされないからだ。徹底した秘密主義で、しかも少数の同族グループでがっちりと固められている。一種のマフィア的組織の感がある。     


転載:『2012年の黙示録』「フツーの人が書いた黙示録」
    http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/apocalypse-meat05.html

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