ハルマゲドンの大峠 ノストラダムス予言研究家ザール隊長

日月神示:春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠越せんことになるぞ。 日月神示を参考にノストラダムスの予言を研究しています。2016年から2025年までは正念場のときです。2023年、北海道の長雨から日本はいよいよ厳しい状況となります。2024年は北日本と首都直下の大地震があるようです。北海道・東北・関東はほぼ間違いなく住めなくなくなりますね。国民は淘汰され、3500万人ほどになるようです。日月神示では掃除・洗濯・身魂磨き・改心という言葉が頻繁に使われています。カルマの浄化が大切です。 日月神示に関しては中矢伸一さんの著書などから転載した記事もあるので読んでいただければ幸いです。

カテゴリ: ノストラダムス


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ノストラダムスが与えた祝福の中で最後の祝福は、彼自身が自分に与えられることになる。すでに、関節炎痛とそれに続く不眠症に悩まされていたノストラダムスは、1566までには浮腫がもとで死にそうな状態であった。それでもなお、彼はなんとか翌年の『暦』を書き続け。その中の11月の項に、「予兆」(プレサージュ)を組み入れた。これは彼自身の死を予言しているようにみえる。

重要公務から戻り、国王からの贈り物を
しまいこんだら、それで終わり、彼の魂は飛び散って、
一番親しい彼の友人、最も身近な近親者が、ベッドと長いすのそばで彼が死んでいるのを見つけるだろう。

7月1日の夕方、彼は<塗油の秘跡>を受けた後で、シャヴィーニーび「おまえは夜明けには生きている私に会えないだろう」と語ったと伝えられている(最後の最後まで予言者だった)。そして朝には、床の上に身体を広げて、ほとんど冷たくなっているところを発見された。明らかに、「予兆」(プレサージュ)141は実現した。それは7月2日、聖母マリアに捧げられた聖母訪問の祝日であった。(またしても、聖母(ノートルダム)である)。
ノストラダムスの町の丁重な儀式によって、サロンのかつてもフランシスコ会修道院の礼拝堂に埋葬された。彼の後には妻と6人の子供たち、そして不滅の予言集と3444クラウンの財産が残された。彼の墓石に左側の壁に建てられており(現在は、サロンのサン=ローランの参事会教会の聖母礼拝堂―またしても聖母(ノートルダム)である―の西側の壁の複製の墓に取ってか代わられた)、未亡人となったアンヌによって書かれ、12歳のセザールによってラテン語に翻訳された墓碑銘が刻まれている。それを訳せば次のようになる。

全能なる神の御手の中に、すべての人によって、星の影響下にある全世界の出来事を神聖なるペンで記すに値すると評価された、著名なるミシェル・ド・ノートルダムの骨、ここに眠る。彼は62年6カ月17日の生涯で1566年にサロンに没した。後に続く者たちよ、彼の休息を妬むなかれ、サロンの双子アンヌ・ボンサルト、夫の本当の至福を望んで、ここに記す。

注:書籍には「6月10日」となっていたが、誤りなので、「6月17日」と訂正しています。

出典:『ノストラダムス百科全書』 ピーター・ラメジャラー著 田口孝夫・目羅公和 訳 東洋書林 1998年12月25年刊・・・・上記は「ノストラダムス、自分の死を予言する」という項から抜粋しました。

プレサージュ141番訳

使えから帰り、王からの大切な贈り物を安全な所に置き、 
それを使う前に、彼は神の御元に召される。
身近な友人、家族、兄弟たちは、
彼をベッドとベンチの間に見る。

出典:『ノストラダムスの謎』 飛鳥昭雄(文) 講談社 1992年7月7日刊 

そして1566年6月には死期を悟ったのか、公証人を呼んで遺言書を作成した。7月1日夜には秘書シャヴィニーに、「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる。ノストラダムス自身がベッドと長椅子との間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りにベッドと長椅子の間で倒れているのを発見されたというエピソードが有名である。しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャヴィニーは、彼がベッドと長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、死んだノストラダムスを最初に確認したとされる長男セザールもそのようなことは語っていなそもそも、当該の予兆詩は出版当時の文献が残っておらず、同年のイタリア語訳版との対照をもとに、現在知られている詩篇が大幅に改竄されている可能性まで指摘されている。

出典:ウィキペディアより抜粋

※『ノストラダムスの謎』では、妻アンヌが第一発見者となっていますが、諸説があるようです。プレサージュ141番のように、彼が亡くなったかは疑わしいですね。これには、隠された予言があるのかもしれません。

1. 『ノストラダムス百科全書』(ピーター・ラメジャラー著 東洋書林)より

ミッシェル・ド・ノストラダムスは、初めて「ノストラダムス」と名乗って、1550年頃から1566年に死ぬまで(シャヴィニーが確証しているように)ほとんど毎年、1年間の『暦』を書いた。1567年の死後出版された『暦』さえあった。
「プロノスティカシオン」やら「プレサージュ」やらさまざまな呼ばれ方をするこれらの人気を博した出版物は基本的に、宗教的カレンダーと世俗カレンダーを結合したものに、月の予位置表を加えたものであった。そこにはまた、一連の天気長期予報もあれば、いくつかの政治的出来事や軍事的出来事を簡明に記述した予言もあった。さらに、それらは(少なくと1555年からは)その年全体を要約し、各々の月を順に要約する、一連の4行詩で飾られていた。1605年、ヴァンサン・セーヴの後援で収集され、彼によって「予兆」(プレサージュ)という表題で『予言集』に収録されたのは、これらの詩なのであった。


注:シヴィニー・ジャン=エメ・ド
ノストラダムスの長年の秘書、書記、編集者、弟子。そして彼の予言の最初の解釈者。のちの出版物で「ド・シャヴィニー氏」と表される彼は、ゴルゴーニュ地方ボーヌの法律家であり、かつては司法官であった。1554年あるいはそれ以降のある時期、ジャン・ドラによって『
予言集』作成を手伝うためにサロンへ派遣され、ノストラダムスの死までその地に留まった。その後、アンヌ・ポンサルドを助けてノストラダムスの遺言の執行にあたるとともに、次の完全版『予言集』の出版を手配した。

※『プレサージュ』には2つあります。一般に我々が目にする4行詩の『プレサージュ』は154(又は141)の予言詩から成っています。141とした場合の最後の詩は1567年11月向けですが、一般的にノストラダムスの昇天を予言したものであると言われています。ノストラダムス、自分の死を予言する

2.NHK <秘話ノストラダムスの生涯>より 5:47~9:52を転記

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 ノストラダムスが40代から移り住んだ町、サロン・ド・プロバンス


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 暮らしていた家をもとにノストラダムス記念館に占星術の貴重な資料が保存されていた。

 ノストラダムスが出版した暦『アルマナック』。
 星の動きをもとにしたカレンダーで、農作業や生活の予定を決める実用書として庶民に重宝された。

 ジャクリーヌ・アルマンさん
 ポケットに入れても持ち歩けるようにとても小さくして薄いものです。
 中身の月の満ち欠けを占星術で占い、種まきや収穫の時期、天候、宗教行事などがわかるようになっています。

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アルマナックでノストラダムスは日付の横に小さなメモを記している。

  8日  この日は霧が出ます
 10日  誰か死にかけます
 15日  医者にかかり、お風呂に入るのがよいでしょう
 

 まさに毎日のワンポイント占い

 このように医者兼占星術師だったノストラダムス。
 世紀の大予言者にはほど遠い印象だ。
 
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 ところが40代後半、このスタイルにちょっとした工夫を加えたことが彼の未来を劇的に変えてしまう。
 それぞれの月初めのところに月ごとの占いを少し長い文章で書いてみたのだ。その一例がこれ。

 8月並外れた豪雨によって家畜の価格は適正になり、
 女たちは死の危険から逃れる。
 しかし、一方霧や雷雨によって人々は打ちのめされ、
 死によって、真剣に働くようになるだろう。

 これまでの日常的の一言占いから近い将来に起きる運命的な出来事の予測へ。
 短い読み物のドラマチックな文章は読者の心をつかみ、大成功を収める。

 ノストラダムスのアルマナックは農民や羊飼いなど庶民に人気が出てとてもよく売れました。家族を養 うのに十分なく食いぶちができたはずです。

 そしてノストラダムス51歳(1554年)のとき、アルマナックで成功した手法を基に、ついに画期的な   本の出筆に執りかかる。
 そのときの様子をノストラダムス自身がこう記している。

 私は神からの啓示を受けた霊感にとらわれ、甘美で長い計算に没頭した。
 それは今から3797年までに及ぶ終わりのない予言である。
 
 1555年『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』初版が出版された。
 予言者ノストラダムスの登場だ。

※2020.8.6最終更新
 

.ノストラダムスは10年間の旅の間に予知能力を得た!

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『ノストラダムス百科全書』(ピーター・ラメジャラー著 東洋書林)より

「彼(ノートルダム)は「1521年から1529年まで、多くの国や地方を訪れた。植物や薬草の起源・出典についての理解と知識を求めて、絶えず各地を移動していた」という。」
「1533年までには、彼は南西部のアジャンの町で医師として腰を落ち着けていたのである。」
「そのようなわけで、ノートルダムはアジャンに根を下ろした。さらに結婚して2人の子供を儲けるが、妻も子供も後世に名前を伝えることもなく、次々と世を去った。なんらかの病気、おそらく疫病によるものであることは明らかである。」
「理由はなんであれ、ノートルダムはまもなく人生の新たな役割を求めて、再び旅に出る。おそらく傷心の旅だったろう。彼は『化粧品とジャム論』(1552年)の中で、いつとはいわないが、ボルドー・トゥルーズ、ナルボンヌ、カルカソンヌなどで医療行為をしたという。」
「確実にいえることは、放浪のノートルダムは1544年までに、おそらくウィーンを経由してプロヴァンスに戻っていたということぐらいである。」
疫病予防・治療のために1554年マルセイユ、1546年エクス・アン・プロヴァンス、その後サロンを訪れる。
「サロンで彼は、やがて未来の再婚相手、アンヌ・ポンサンドあるいはポンサール(ラテン語ではポンサンティア)と出会う。」
彼は婚約した後、リヨンの町を訪れる。
1547年11月11日、アンヌ・ポンサルドと結婚している。しかし、数年間、彼はイタリア旅行をする。
「1548年の間に、彼はヴェネチアとジェノヴァで目撃されているだけでなく、サヴォーナも訪れたと伝えられている。そこで彼は評判のいい薬剤師アントニオ・ヴィジェルキオに会った。後にヴィジェルキオの手になる便秘薬の調合が2つ、1552年の『化粧品とジャム論』(1555年初版)に付録として加えられることになる。・・・フィレンツェの有名な図書館を訪れたことはほぼ確実である。」
「さらに、トリノ(当時はフランスのサヴォワの一部)を少し外れたところにある邸宅には、かつて、ノートルダムと彼よりずっと以前のダンテ(同じく常習的な放浪者)とが訪問したことを、誇らしげに記した銘版がかけられていたと報告されている。」

1556年
ノストラダムス、ここに滞在し、そこに天国が現われた、地獄と煉獄もまた現われた。
私の名前はヴィクトリー、私を讃える者は名を成して、私を蔑む者は破滅するべし。

文学というよりは情熱的であるこれらの言葉は、おそらく、実際のノートルダム訪問から数年後に、家もまた建築中、あるいは、改築されている間に刻まれたものであろう。
それにしても、なぜ、イタリア旅行なのだろうか。」
「いまや、彼は予言の才能であると自覚している自分の能力、つまり、後の彼の言葉でいえば「祖先たちによって遺贈された私の生来の本能」を磨く決心をしていた。しかし、この才能を磨き完璧なものにするためには、用意に入手できない多くの秘儀的な知識が必要であった。例えば、イタリアブリンクスの『エジプトの秘儀論』―儀式的魔術(神や霊魂を呼び寄せる術)に関する影響力の強いギリシャの作品―は、もはや絶版になっていた、しかし、マリシリオ・フィチーノのラテン語訳の版は、アルド・マルツィオ(現代の大部分の句読法の先駆者)によって出版され、1497年以降、フィレンツェの図書館に所蔵されていた。リヨンのジャン・ドゥ・トゥルヌ版『エジプトの秘儀論』を出版する気になったのは、1549年のことであったろう。」
シチリア島も行ったのでないだろうか。
「ようやく、ノートルダムがサロンの新たな改装された自宅に戻ったのは、1550年頃であったらしい。妻は苛立っていたに違いない。ようやく家庭生活が再開され、また、ようやく彼の本当の仕事が始まった。彼の長年の懸案であった『化粧品とジャム論』に仕上げの筆を入れることができただけでなく、一連の年刊の『暦』(アルマナック)の仕事にとりかかることができた。また、自分の新たな立場を自覚して、初めて自分を<ノストラダムス>と呼ぶようになった。」

ノストラダムス(ウィキペディア)

結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供をもうけたことは、確実視されている。しかし、1534年頃に妻子ともに亡くなったようである。

『週刊100人 No.39 ノストラダムス』(デアゴスティーニ)より

「詳しい足取りは不明だが、1535年から1539年まではトゥールーズの南東にあるカルカソンヌ、1539年にはブルドーに滞在したという記録がある。またフランス国内にとどまらず、ドイツやルクセンブルクにも出没したようである。」
「『予言詩』の4行詩は抽象的な表現が特徴的だったが、この形式は珍しいものではなかった。日本でいう短歌や川柳のように、4行詩は2行ずつ韻を踏んでリズムを生み出している。ノストラダムスは『聖書』でも使われているこの形式を踏襲したにすぎないと考えられる。一方の曖昧な表現だが、これにはいくつかの理由が考えられる。第1に、予言が外れないようにするため、抽象的な表現ならいくらでも言い訳がきくということである。次に、明確に書くことで民衆の不安を煽ってパニックを招くのを危惧したため。そして最後に、あまり不吉なことを書き立てると、異端者として魔女扱いを受けて、かのジャンヌ・ダルクのように処刑される恐れがあったため。ノストラダムスが慎重になるのは当然のことなのである。」

※1534年に妻子を亡くしてから、プロヴァンスに戻る1544年の10年間になんらかの修行をして予知能力を身に着けたと思われます。
彼はアカシックレコードを読めたのです。彼ほどの予知能力があれば、透視、他心通(他人の心が読める)などもあったに違いありません。
アカシック・レコードとは、全宇宙で起きる、過去、現在、未来の出来事や、すべての人間の感情や想念が書かれている広大な宇宙の記録層のこととされています。
結婚後のイタリア旅行は『アルマナック』『化粧品とジャム論』『サンチュリ』のための資料を得るためだったようですね。


2.2人のノストラダムス研究家

YouTube・・・ナショジオ ノストラダムスの大予言(47:03)
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※ノストラダムスに関する内容はほとんどありませんので、あしからず。
2人のノストラダムス研究家に関して、3:45~5:43にあるのでご覧ください。

①ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(3:45~5:06)
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8C

②ピーター・ラメジャラー(5:06~5:43)
ノストラダムスの大事典
http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/196.html

  訃報

http://asakura.asablo.jp/blog/2016/04/25/8078192

3.サロン・ド・プロヴァンス

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9+%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%89%EF%BC%9D%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%B9/@44.2882928,6.44179,7.21z/data=!4m5!3m4!1s0x12b60033a801faa1:0x40819a5fd96ff20!8m2!3d43.640199!4d5.097022

ノストラダムスの大辞典(ノストラダムス)
http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/1085.html

彼が晩年過ごした家(ノストラダムス・・・ウィキペディア)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/53/Nostradamuss_house_at_Salon-de-Provence.jpg

4.アカシックレコード

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アカシックレコード(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89

5.チャクラ

人間には主だったチャクラ(霊的センター)は7つあります。
このチャクラを活性化させることによってと超能力が身につけることができます。
このチャクラを活性化させるためにはクンダリニーの覚醒が必要です。
クンダリニーとはサンスクリット語の「クンダラ(螺旋)」と「クンド(燃える)」に由来した言葉で、すべての人の尾てい骨に眠っている内なるエネルギーの事です。それは、人間の精神を高い次元へと押し上げる力を有していると言われています。
通常、クンダリニーは一生かかっても覚醒しない人も非常に多く、修行の本場のインドでさえ、一生懸命修行したとしてもなかなか大変です。
覚醒技法の失敗や日常生活におけるアクシデントなどにより準備が整わない形で覚醒が生じる様々な快・不快の症状をもたらすことがあります。
チャクラには尾てい骨から頭頂に至るまで主なものが7つあって、尾てい骨・性器・へそ・胸・のど・眉間・頭頂に位置すると言われています。
アージュニアー・チャクラ(第3の目)が完全に開く(活性化する)と、アカシック・レコードが読めるようです。
 
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6.チャクラの活性化
①パタンジャリのヨーガ・スートラ
http://www.ultraman.gr.jp/ueno/2-yo-ganew_page_3.htm

②ムーラダーラ・チャクラの活性化(MLメンバー・元気丸さんのブログ)

※過去の記事「トリノの石」もお読みください。

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若き日のノストラダムスは、有能な医師として多くのペスト患者を救った。しかし他人を救うのに熱中するあまり、愛する妻子をペストで失ってしまう。
さらに教会の堕落を批判したことから、異端として糾弾されたノストラダムスは、すべてを捨てて放浪の旅に出た。
ノストラダムスの放浪生活は8年にも及ぶ。ではこの8年間、ノストラダムスはどこで何をしていたのだろうか。
近年、イタリアの歴史家リッカルド・バルドゥチが画期的な学説を発表した。この期間、ノストラダムスはイタリア北部の都市トリノに生活の拠点を置いていたというのである。
ここでノストラダムスは、昼間はポー川の流れを眺め、夜は月を眺めて過ごしていたというから、まるで隠者のような生活を送っていたらしい。
そして時折、人々を集めては「小麦をできるだけ買い集めて備蓄しておくように」というような指示を与えていたという。
町の人々がノストラダムスの指示どおりに小麦を買い集めておくと、はたして次の年、北イタリア全土は深刻な不作に見舞われた。
だが、ノストラダムスの指示のおかげでトリノの人々は飢えることもなく、さらには買い集めておいた小麦も諸外国に非常な高値で売れたのである。

さらにノストラダムスは、トリノ市民のだぶついた資金を、見込みのありそうな産業や人物に投資することを奨めている。投資先はノストラダムスが決定したが、そうすると半年後には2倍3倍になって戻ってくるという寸法だ。
トリノといえば商業都市として名高いが、その成功の背景にはノストラダムスの「予言」があったのである。
当時、ノストラダムスの住む屋敷は、トリノ市ミカエル・レッソナー通り68番にあった。人々はそこを「勝利の館(やかた)」と呼んでいたという。このことからも、どれほどノストラダムスが尊敬されていたかがわかるだろう。ちなみにそこには、現在でも大理石造りの豪壮な屋敷が建っている。
おそらくノストラダムスの霊感は、トリノでの生活において開花したのだろう。医師として人々を救う道を絶たれたノストラダムスは、やがて予言者として人々を救おうと決意したにちがいない。トリノでの8年間は、そのための実験期間だった可能性がある。
この時期、未来予知ができるようになっていたとすれば、人々にさまざまな指示を与えることなど造作もないことだったはずだからだ。
だが、やがてノストラダムスはトリノを離れた。その後約10年間、彼がトリノを訪れることはなかったが、1556年に、ノストラダムスはトリノに姿を現す。あの『諸世紀』が発行された次の年のことだ。
ノストラダムスは人々を集め、かつて自宅だった「勝利の館」の壁に1枚の銘板をはめ込みながらこう告げた。
「この銘板はトリノの人々、ひいてはすべての人々に永遠の未来を約束する」
そしてノストラダムスは去った。
銘板には、こう記されていた。

「1556年、ノストラダムスは、ここ天国、地獄、煉獄に宿を見出した。私は自らを勝利と呼ぶ。私を敬う者には栄光が、私を見下す者には無残な破壊がもたらされるだろう」

銘板はトリノの石と呼ばれ、そこに刻まれた銘文は彼の予言を解読する鍵であるという。おそらくノストラダムスは予言の解読方法を暗示するために、トリノの石を設置したのだろう。
だが、1990年にトリノの石は「勝利の館」から何者かの手によって持ち去られてしまった。一説ではローマ法王庁の圧力によって外されたともいう。

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