ノストラダムスが与えた祝福の中で最後の祝福は、彼自身が自分に与えられることになる。すでに、関節炎痛とそれに続く不眠症に悩まされていたノストラダムスは、1566までには浮腫がもとで死にそうな状態であった。それでもなお、彼はなんとか翌年の『暦』を書き続け。その中の11月の項に、「予兆」(プレサージュ)を組み入れた。これは彼自身の死を予言しているようにみえる。
重要公務から戻り、国王からの贈り物を
しまいこんだら、それで終わり、彼の魂は飛び散って、
一番親しい彼の友人、最も身近な近親者が、ベッドと長いすのそばで彼が死んでいるのを見つけるだろう。
7月1日の夕方、彼は<塗油の秘跡>を受けた後で、シャヴィーニーび「おまえは夜明けには生きている私に会えないだろう」と語ったと伝えられている(最後の最後まで予言者だった)。そして朝には、床の上に身体を広げて、ほとんど冷たくなっているところを発見された。明らかに、「予兆」(プレサージュ)141は実現した。それは7月2日、聖母マリアに捧げられた聖母訪問の祝日であった。(またしても、聖母(ノートルダム)である)。
ノストラダムスの町の丁重な儀式によって、サロンのかつてもフランシスコ会修道院の礼拝堂に埋葬された。彼の後には妻と6人の子供たち、そして不滅の予言集と3444クラウンの財産が残された。彼の墓石に左側の壁に建てられており(現在は、サロンのサン=ローランの参事会教会の聖母礼拝堂―またしても聖母(ノートルダム)である―の西側の壁の複製の墓に取ってか代わられた)、未亡人となったアンヌによって書かれ、12歳のセザールによってラテン語に翻訳された墓碑銘が刻まれている。それを訳せば次のようになる。
全能なる神の御手の中に、すべての人によって、星の影響下にある全世界の出来事を神聖なるペンで記すに値すると評価された、著名なるミシェル・ド・ノートルダムの骨、ここに眠る。彼は62年6カ月17日の生涯で1566年にサロンに没した。後に続く者たちよ、彼の休息を妬むなかれ、サロンの双子アンヌ・ボンサルト、夫の本当の至福を望んで、ここに記す。
注:書籍には「6月10日」となっていたが、誤りなので、「6月17日」と訂正しています。
出典:『ノストラダムス百科全書』 ピーター・ラメジャラー著 田口孝夫・目羅公和 訳 東洋書林 1998年12月25年刊・・・・上記は「ノストラダムス、自分の死を予言する」という項から抜粋しました。
プレサージュ141番訳
使えから帰り、王からの大切な贈り物を安全な所に置き、
それを使う前に、彼は神の御元に召される。
身近な友人、家族、兄弟たちは、
彼をベッドとベンチの間に見る。
出典:『ノストラダムスの謎』 飛鳥昭雄(文) 講談社 1992年7月7日刊
そして1566年6月には死期を悟ったのか、公証人を呼んで遺言書を作成した。7月1日夜には秘書シャヴィニーに、「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる。ノストラダムス自身がベッドと長椅子との間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りにベッドと長椅子の間で倒れているのを発見されたというエピソードが有名である。しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャヴィニーは、彼がベッドと長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、死んだノストラダムスを最初に確認したとされる長男セザールもそのようなことは語っていなそもそも、当該の予兆詩は出版当時の文献が残っておらず、同年のイタリア語訳版との対照をもとに、現在知られている詩篇が大幅に改竄されている可能性まで指摘されている。
出典:ウィキペディアより抜粋
※『ノストラダムスの謎』では、妻アンヌが第一発見者となっていますが、諸説があるようです。プレサージュ141番のように、彼が亡くなったかは疑わしいですね。これには、隠された予言があるのかもしれません。