外食産業とて同じことだ。
 日本は外食文化の盛んな国であり、外食産業関連の店舗は、コンビニ同様、至るところにあって、日々生き残りをかけた熾烈(しれつ)な競争が展開されている。
 そんな中、一部のファミリーレストランや居酒屋チェーンなどでは、有機栽培の野菜を使用したり、農家と契約して有機農業を広める活動を行うなど、「食の安全性」や「環境」に配慮し、企業に付加価値を持たせる戦略を取っている。それらの動きは、それなりに好感が持てる。
 だが、大半の外食産業は、いかに法律に触れない範囲でコストを下げ、利益を上げるかということに主眼が置かれ、国民の健康やら食の安全性などには興味がなさそうだ。
 消費者の方にも問題がある。これだけBSEなどで騒がれても、焼肉店やらステーキ、ハンバーグ専門店などが大人気というのはどういうことなのか。皆が食べているから大丈夫と思っているのだろうか。あるいは、とくに何も考えていないのだろうか。
 あとでしっぺ返しが来ても、誰かが責任を取るわけではない。今の世の中はそういう仕組みである。何を食べても自由な代わりに、何を選んで食べるかは、まったく個人の責任ということになる。
 大人なら、いろいろと情報を得て、自分が食べる物はある程度選ぶことができるし、それは自己責任ということもできる。
 しかし、子供はそうはいかない。子供は、親(大人)が与えるものを食べるだけである。その子供に、食品汚染の魔の手が容赦(ようしゃ)なく襲いかかっている。
 たとえば、私はいつも疑問に思うのだが、子供向けの食品に、北欧では全面禁止されているタール色素が平気で使われているのはなぜか。
  赤だの青だの黄色だの、あのカラフルな色合いを出す「黄色4号」「赤色2号」「青色1号」などという合成着色料が、タール色素と呼ばれるものだ。色鮮やかな子供向けのお菓子やソーセージなど、手にとって表示ラベルを見て頂きたい。堂々と含有物として明記されている。
 タール色素は石油から作られる食品添加物である。これらの化学物質がアレルギーを引き起こす要因となるため、北欧では禁止されている。とくに問題なのは「黄色4号」といわれるもので、これを体に取り入れると、わずか一時間でアレルギー症状(じんましん、鼻づまり、目の充血などが)現れるという。
 さらに、これらの物質が体内に入ると「メチルニトロソ尿素」という有害物質が生まれる。こうした有害物質が体内に侵入しても、最も大切な脳までに入ってくるのを防ぐため、血管の途中に脳血液中関門という“関所”が設けられている。しかしこの「メチルニトロス尿素」は、“関所”をフリーパスで通過して脳まで到達し、前頭葉に入り込む。
 前頭葉は人間としても「理性」を司(つかさど)る場所で、ここが狂うt「獣」になってしまう。最近抑制がきかない子供たち、キレやすい子供たちが増殖している原因も、ここにあるのではないかと言われている。(参考:山田博士著『脱コンビニ食!』平凡社新書)
 菓子類やジュースだけでなく、コンビニ弁当やらファストフードなどを、子供たちに日常的に与える。それで幼児期からアレルギーや、様々な疾患が起きている。体だけでなく精神にも影響を与え、「キレたやすく」させる。このままの状態では、国民の総病人化、短命化はますます進むだろう。そして行き着く先は、民族の滅亡である。
 これは、大規模な「ジェノサイド(虐殺)」ではないか。
 即、命が奪われるジェノサイドならば、誰も目にも明らかだし、すぐに問題になる。とこはが、何十年もかかって進むジェノサイドは、なかなか気づかれない。皆が気づいた時には手遅れということになる。
 神示にも、『富士の巻』第十八丁の一節に、

 「食いて行くべきもので人殺すとは何ごとぞ」

 という言葉があるが、これなどはまさに、現代の食事情に対数する大神様の戒(いまし)のようにも思われる。
 
 近ごろ、「デトックス(detox)という言葉が流行(はや)るようになった。
 デトックスとは、体の中に蓄積された毒素を体外に吐き出すこと、あるいはその健康法をさして言う。正確に言えばdetoxification(「解毒・げどく」の意。体内から毒素や老廃物を取り除くこと)を短縮した言葉である。
 私たちが昔から「排毒」と呼んでいたもんjだが、誰かが洒落(しゃれ)た横文字のネーミングにして広めたのであろう。
 体内毒素を出さなければ真の健康体は得られないとうことは、自然療法を少しかじったことのある人なら誰でも知っていることだ。
 現代社会に生きている以上、誰であっても、体内に有害物質(重金属や合成化学物など)を溜(た)め込んでいる。くどうようだが、「誰であっても」である。どんなに良い環境に思える田舎に住んでいても、どんなに生活習慣に気をつけていても、有害物質は体内に入り込んでいる

出典:『[日月神示]神か獣か!魂の超選択』中矢伸一 徳間書店 2007.4.1刊
第三章 神となるか、獣となるか—病まず、弱らず、気力に満ちた人生を確立する

「食いて生くべきもので人殺すとは何事ぞ。それぞれの神様にまつわればそれぞれの事、何もかなうのぞ、神にまつわらずに、臣民の学や知恵が何になるのか、底知れているのでないか。戦には戦の神あるぞ、お水に泣くことあるぞ、保持の神様 御怒りなされているから早よう心入れかえてよ、この神様お怒りになれば、臣民 日干しになるぞ。」(富士の巻・第十八帖)