・地元からの反発の声

小雨に煙る境内は参拝客の姿もまばらだった。2016年1月末、宇佐神宮を訪れた。代々の宮司家、到津(いとうづ)家の母娘追い出しを謀った「嘆願書」(2009年1月16日付)に筆頭で署名し、その後、宇佐神宮では2人しか置けないという権宮司に昇進した永岡健二権宮司(68歳)に話を聞くため、私は約20万坪という広大な敷地を持つ宇佐神宮の境内に足を踏み入れた。
「宇佐神宮の騒動?知っちょるよ。伝統ある神社なのに争いごとなんてみっともねぇ」(乗ったタクシーの運転手さん)
地元ではそのような声を複数聞いたが、到津家排除の経緯や背景まで知る人はほとんどいない。
到津家の長女で権宮司だった克子さんの宮司任命をめぐり、神社本庁が介入してくる経緯に少し触れておこう。

「宮司になんかするか!」

先述したように、克子さんの宮司就任が宙ぶらりんになっていることを憂慮する天皇発言(2008年9月)を受けて、克子(  )さんの母・悦子(よしこ)さんが神社本庁にその旨を述べて娘の宮司命令の決定を求めたところ、田中○○副総長(当時)=岩清水八幡宮司=はこう応じたという。
「誰が宮司なんかするか!世襲は田中(自分のこと=岩清水八幡宮)、千家(せんげ=出雲大社)、西高辻(にしたかつじ=大宰府天満宮)の三家だけじゃ(注)。
なぜここで唐突に、気多大社(石川県羽咋(はくい)市)の名前が出てくるかは、少し説明が必要だ。神社本庁から脱退を決めた気多神社に対し、神社本庁は裁判に訴え(被告は文部科学大臣)、10年4月、最高裁が気多神社による神社規則変更(神社本庁からの脱退)を認める決定をした。
つまり、田中副総裁の発言は、神社本庁の宮司任命にタテを突き、本庁から脱退しようとしても克子さんが権宮司である限り、それは認めらない、という趣旨だ。当時」、気多神社と争っていた神社本庁側の懸念が口をついて出てしまったのかもしれない。
以後、神社本庁側は克子さんを宮司にさせないために、様々な人事工作をしてきた。それらがことごとく不調に終わった後、克子さんの父・公齊名誉宮司の葬儀の翌日、宇佐神宮の神職11人の連名で、克子さんの宮司就任を拒否するよう求める前述の「嘆願書」が出されたのである。経緯からしてこれは、神社本庁=田中副総長の意を汲んだものと思われて仕方がない。

・「独自の判断でやった」

その「嘆願書」の中心人物とされる水弘権宮司が宇佐神宮社務所で取材に応じた。以下は筆者のやりとりの一部だ。

―到津家排除の嘆願書は神社本庁側の意向を汲んだ、具体的に言えば当時の副総長である田中さんとの協議の上で、その指示のもとに出したのではないかとの疑いがあります。提出日の前日、公齊名誉宮司の葬儀には田中さんも参列していました。

永弘 
いや、何も話していません。葬儀で忙しく、そんな暇はなかった。田中さんと話し合ったという噂があるのは知っているが、一切話していない。

いや噂ではなく永弘さんが本庁と通じていたのではないかと話す当時の関係者もいます。任命権を持つと称する神社本庁の代表が葬儀に参列し目の前にいるのに、翌日に出す文書について何も話していないと言い張るのは逆に不自然です。

永弘 
・・・・・・。いや、あくまで我々独自の判断でやったものです。

―事実経過見てゆくと、とてもそうとは思えない。葬儀の翌日にこういう「嘆願書」を出すのは一般常識から外れていませんか。

永弘 それだけ積み重なったものがあるということだ。

―積み重なったもの?かりになんらかの問題があるしても、責任役員会の決定に背いて宮司にさせず、そのあげくに免職。ひどいやり方ですね

永弘 それは今、裁判をやってるから・・・・・・。


:「世襲が三家だけ」
という根拠については不明。

出典:文=片岡伸行( 『日本会議と神社本庁』 成澤宗男編著 金曜日 2016/6/29)